弾ける、歌える、その先は曲作りを学ぼう渡利辺祥楽舎 0721-28-8000
ステキで素晴らしい曲作りたい、との意欲を伸ばす
楽典とは? コード進行とは? 和声とは?◆『楽典』は、「楽譜を見て演奏することがある人なら誰でも知っておくほうがいい」という程度の音楽知識です。五線譜の記し方、音程、拍子、音階や調、和音の重ね方や転回形や種類といった基礎的な音楽理論で、『音楽通論』ともいいます。中学や高校の音楽の教科書にも掲載されていて、「やさしい作曲の仕方」「コード和音をわかるようになろう」といった類の初心者向け音楽教本のほとんどは、冒頭~前半に「まず音程や音階を知っておこう」といった楽典の教養知識が付記されています。 世の中一般に、メディアに関心のある人々は「『リテラシー』というのは知っているが、『楽典(がくてん)』というのは知らない」という人たちも多そうですので、次のような説明の仕方をしておきます。(文字を読み書きできて文章を理解でき、聞いたまま言われるまま…ではなく情報を読んで知って理解し考えることができる、ごく基礎的な読み書き能力のことを「リテラシー」といいますが)、「音符の長さや音の高さの記し方を知っていて、五線譜を読んでどのようなメロディーや和音の曲か理解して、どう歌いどう弾けばいい感じに演奏できるかやってみて考えることができる基礎的な能力」は、「音楽の譜読みリテラシー」です。「音楽の譜読みリテラシー」を得れば表現意欲を演奏活動で発揮したい人たちは増えますし、「楽譜読み書きリテラシー」を得れば楽曲を作りたい人たちは増えて、才能を伸ばしたい人も現れるでしょう。日本語だって、「(幼児や日本語を全く知らない外国人は)聞いたら多少でも話がわかるようになれたらいいなあ。→自分も多少でも話せて会話が通じたらいいなあ。→ひらがな/カタカナ/漢字の読み書きもできるようになりたい。→説明文など長い文章も読んでわかるようになり、自分も用件連絡や挨拶文などを作文して伝えられるようになれたらいいなあ。→他人の書いた文章を読んでるだけでなく、自分も文学的な小説や歌詞やエッセイ/コラム/論文/解説/記事などの文章をスラスラ書けるようになれたらいいなあ」というように日本語リテラシーの能力の成長とステップアップをめざすものです。子供がひらがなやカタカナや漢字を覚える際には「聞いて、読んで、幾回も書いて、照合して、‥のトレーニングしながら覚える」のと同様に、音楽だって、楽譜の読み書きも「譜読みしたり歌ったり弾いたり書いたり」を普段からトレーニングしていれば、自然に覚えるものです。「聞いたらオンチでなく多少はわかって歌えるし、ちょっとなら楽器を弾いたこともある」という人々は多いですが、学ぶ気になれば「バンド曲やアンサンブル曲を作れるようになろう」という道のりには、音楽のリテラシーとしていろいろと勉強すべきことも用意されているわけです。 音楽産業においても音楽教育においても、「音楽の譜読みおよび楽譜の読み書きリテラシー」の質を高め普及するニーズはあるわけです。 『楽典』は(社会科学に比べると)抽象性の高い理系の理論ですが、高校の数学や物理・化学・地学に比べても、比較的やさしく理解できて、「歌ったり楽器演奏したくなったらすぐ役立って楽しい」と実感しやすい…知っておいてよかったと思える教養知識です。「中学・高校時代に学校で教えてもらっていたら、『ちょっと楽譜見て曲を弾いてみようかな』と思ったときにも、五線譜も和音コードも簡単にわかって、よかったんだけどなあ」と言いながら、大人になって「初めてちゃんと音楽の勉強をできた気持ちで満足だ」という受講者の人たちは少なくありません。「ちょっと再学習すれば、すぐ思い出せますよ」というつもりで教えたら、「楽典や楽譜の読み書きを中学校の音楽の授業できちんと学習した覚えがない。教科書に載っていた楽譜はろくに見ることなく、聞き覚えで歌っていただけだった」という人たちが意外に多いことに驚きました。「理工系へ進路希望の人でなければ使うことのないほど難しい数学や物理や化学を学習することよりも、楽譜の読み書きとコードと楽典を学習しておくほうが、中学高校時代の教養学習としては後々よほど役に立つ」という人々は少なくないのですから、与えられた曲を歌うか鑑賞することへの比重が大きすぎる音楽の授業カリキュラムを見直して、音楽教員を増員してもいいと思います(註※)。中学高校で長年にわたって音楽の授業を受けてきて、教科書には楽典もコードも載っているのですから、誰もが「楽譜の読み書きぐらいできてあたりまえ」の状態が普通なはずですが、1990年代後半からの20年来、一応勉強した人でさえも「カラオケで歌は歌うけど、その歌の楽譜は見たことない」「楽譜集やバンドスコアを買ってきて譜読みすることは少なくなった」などで、楽典も楽譜の読み書きも忘れてしまった人が少なくないのかもしれません。「楽譜なんかなくても、ノリのいいリズムとメッセージ性ある歌詞とかっこいいダンスがあれば、音楽はできるさ」というスタンスでの究極のジャンルはヒップホップの即興、「楽譜も歌詞もなくたって音楽はできるさ」というのは太鼓/パーカッションの即興セッションです。それ以外の音楽ジャンルでは(ヒップホップを曲として整え仕上げる場合も含めて)、多かれ少なかれメロディーはたいせつで、上手く歌いたい/奏でたい/作りたいと思えば楽譜を読み書きできることも必要です。 (註※:ちなみに、幼稚園教諭や小学校教諭の教員免許取得では、数ある履修科目において基礎的な「音楽‥童謡が歌えて鍵盤で簡単な伴奏が弾ける程度」の科目も一応履修するようになっていますが、それとは違った内容で、情報の授業の担当教員の免許取得においても「音楽‥楽譜の読み書きができてDTMアプリの基礎知識ぐらいはわかる程度」の科目が選択科目((情報教員の全てが音楽が得意とは限らないため選択))で履修できるようにすれば、少子化時代に「生徒数も教員数も少ない学校では音楽やDTMのわかる教員が1人もいない」のではなく「音楽教員がいるか、たとえ音楽非常勤講師が週1~2回しか来ない学校でも少なくとも音楽科目を選択履修した情報教員がいる」状態にはなるでしょう。議論のお題として下述した項目に詳細の記載がありますが、音楽は「学校教育の授業科目にもあり、しかも、能力があれば国が法律で認めてくれる著作権もその著作権収入を分配してくれる公的団体もある」という面で、他の文化芸術各ジャンルに比べても「才能と学習鍛錬の機会が与えられればチャレンジしてみたい‥そのチャンスは誰もにある」と言いやすい社会的環境に恵まれています。そのスタートラインのリテラシー教育を充実していくことは、文化政策のひとつとしても価値ある選択でしょう。こうした意向は「音楽業界や音楽教育現場の教員の人たちの間でニーズがあり、民意の支持も高まっている」と行政に文化や教育の政策の提案のひとつとして認識してもらえることがたいせつで、「潜在ニーズはあっても誰もがチンマリと黙っていて、必要性も要望も提案もあるようには思われない」という状態では行政はスルーしていきます。授業数が増えている科目では、「無駄と言われて弱腰になり授業数が減ってもあきらめる」みたいな姿勢ではなく、学び鍛錬して能力アップすることの意義を主張して強気です。奇妙な煽動で軋轢に奮起しては一過性で勢いづいて抑制や沈静化されるようなやり方ではなく、だからといって推進力の勢いが出し惜しみされるわけでもなく、しぶとくじわじわと平和的に盛り上がり、できるだけ気持ちよくできれば素晴らしさとともに、本当に実現していいことはちゃんとその意向を認識してもらえて推進力の勢いを持ち続けながらクリエイティビティの価値評価を高め、その仕事に多くの人間がかかわって働くのもまた価値あることなのだとわかってもらうことがたいせつです)。 「楽譜の読み書きもできず聴音書きとりもしたことがない人々が多ければ、耳コピーしてコピーバンドしたがることもなく、著作権について学ばなくても著作権を侵害するリスクも少ないだろうから、楽譜も出さずソルフェージュのトレーニングもしないほうが何もしなくていい」というのは、面倒くさがりやの考えです。「楽譜の読み書きもできるし聴けば音のピッチもリズムもわかって楽譜に書くことも歌ったり奏でたりすることもできる人たちが、著作権も学んで、演奏や作曲や編曲しても著作権侵害することにならないよう、互いへの配慮や尊重や共栄共存を可能にしていくために、少しずつ努力目標を前へと進めながらなすべきことは多い」というのが、成長と発展を可能にする考えです。前提となる諸条件や(音楽学習人口的な)規模と産業成長段階からいえば単純に比較できないかもしれませんが、それでも「音楽教室やアマチュアバンドブームで向学心や練習意欲や音楽表現活動が人々に広く旺盛な時期‥1960年代~90年代前半」と、「音楽に関しては消費者/聴いて楽しむかちょっとした娯楽でカラオケを歌うだけでいいという人々が増え、向学心や練習意欲や音楽表現活動に能動的/積極的に取り組む人々は減少傾向にあった時期‥1990年代後半~2010年代」とでは、音楽産業は総体的に見ればどちらが繁栄し期待感も商業規模も大きかったか、と概観すれば、面倒くさがりやの選択にはメリットが少ないことがわかるでしょう。「少しの作曲者がDTMアプリで曲を作り、その曲を受信できるたくさんのスマホがあれば、生産者と大勢の消費者を結んで音楽市場は成り立つから、演奏家も楽譜も楽器もレコード店も音楽教室も演奏会場ももう要らない‥というような効率化」への方向付けは、一部の先端産業のインテリベンチャーを色めき立たせるかもしれませんが、「産業が総体的に栄えてこそ‥という展望を抜きにして、その効率化で音楽産業を衰退させてどうするの。『人間の欲望は限りないものだ』と言う人々はいるけれども、我々も含めて昨今多くの人々がそうは思っていない。むしろ、『人間の面倒くさがりやの増殖に限りなく対処せねばならない』みたいな事態はどうしても避けなければならない‥そのためには、学問のススメ、練習の奨励、クリエイティヴワークの価値創造力への評価を高め、さらにはクリエイティヴワークが何でもかんでも一元的に"消費者相手"に向き合って安易に陳腐化しなければ金銭収入を得にくいような偏りある産業構造や報酬分配制度は改めることが、社会や産業を元気にする‥って言える姿勢がいいんじゃないの」と問いかけて考え直してもらわねばならないようなプロジェクト案です。 「コンピュータがあれば曲作りは簡単だから、人間は楽譜の読み書きなど何も知らなくてもいい」と考えるのは、「コンピュータがあれば計算も文章作成も簡単だから、人間は算数の足し算/引き算や文章の書き方など何も勉強しなくてもいい」と考えるのと同じぐらいの勘違いです。が、音楽をちゃんと学んだことがない人ほど、「何も知らなくたって勉強や練習の努力もしなくたって、音楽家になって活躍して大金を得られるかもしれない」と奇妙な野望をいだいたりする。今や、「楽譜の読み書きやソルフェージュや楽器練習に加えて、パソコンの楽曲制作アプリの扱いにも巧みになる必要がある時代が訪れた」というのが、妥当な認識です。今からでも、徐々に音楽の譜読みリテラシー/楽譜の読み書きリテラシーを普及させていくためには、きちんとしたことを教える音楽教育をたいせつにしていく必要があります。 ◆『コード進行』を知っていると、伴奏付けに便利です。17~18世紀の通奏低音の伴奏和音表記を元に、20世紀半ば米国生まれのコードネーム。1960~70年代にはいろんな記し方が模索されていましたが、80年代には合理的な表記方法が整えられました(40代以上の人は、子供の頃に弾いた電子オルガンやギターの楽譜に付記のコード表記と、今のコード表記は若干異なる‥ということがあり得ます)。さらに「ハイテンション和音」や「セカンダリドミナントの理解の仕方」も加えたジャズコード理論は、20世紀半ばにドイツから移住したヒンデミット氏が米国で近代和声の教鞭をとったことの影響力も大きいと言われています。 ジャズの人たちはコードを鵜呑みで丸暗記‥みたいなやり方は超えて、アドリブ即興できるほど応用が利く演奏の仕方をめざします。リハーモナイズ(或るコード進行を、他にこんなコード進行でももっとステキに和音付けできる‥と柔軟に融通を利かせて工夫すること)も、ジャズでは奨励されています。いわば、「初期の簡単素朴なデキシーランドジャズのままでいい、ちょっとした余興でいい」という程度のことでは満足しなかったからこそ20世紀に出現した世界的な音楽になり得たわけで、それまでの西洋音楽で新たな改善策が必要と認識されたことを乗り越えるための試み‥すなわち「和音の学習をして覚えたら、それに捉われすぎて融通が利かず型どおりになる」という状態を避けるための"柔軟性重視対策"や、"演奏者が演奏の場で直感するセンスを、そのときその場で活かせる音楽表現の快活さや、(指示待ち姿勢でなく演奏者が自主的に)自由な表現意欲を追求して発揮する名人芸的な巧みさへの感激"がわき立つのを奨励しているわけです。 音楽の演奏には確かに、"即興で演奏する楽しさ"というのはあります。が、「たいして勉強も練習もせずに即興しても、できることはしれている」のは否めませんし、「何も考えず思考停止状態でも即興演奏なら達者にできる」という状態に至るのが究極の目的ではありません。「簡単便利に伴奏付け」‥は、西欧音楽史の流れにおいてはすでに17世紀に通奏低音で試みられたこと(17世紀には、ギターの前身リュートやピアノの前身チェンバロで伴奏付けしながら、即興を絡めてアンサンブルするのが流行った)ではありますが、その後18~19世紀には「伴奏付け以上にちゃんと考えて曲を作りたいなら『和声』を」と、曲の作り方の方法論が学問的に樹立されたのです。(20世紀半ばのモダンジャズの即興演奏は、通奏低音のような三和音主流の音づかいで流行ったわけではなく、20世紀前半の近代和声や旋法などの試みを含めての即興が流行ったのです。クラシック古典の曲にはないジャズピアノ特有のメリハリの利いた奏法は、クラシック20世紀前半の"点描"の音楽の影響も受けています。ジャズって、クラシックとは無関係に生じてきたわけではないんです)。学習カリキュラムからいえば、ポップスやロックでよく用いられるコードを学んで向学心が芽生えたら、ジャズで用いられるコードや楽器編成、クラシックの和声や多声部書法や楽曲形式や楽器編成など、学べることはまだまだあります。 ポップスやロックは、ジャズやフュージョンに比べると単純な和音を用いた曲が多いですが、「どういう和音か理解していないけど、とにかく何の音を弾くのか手の形で丸暗記して、和音進行のパターンを覚えるのみ」みたいなやり方ではなく、応用が利くように学びましょう。コードの学習の予備知識には、英米音名と音程の理解が必ず必要です。音程がよくわかっていない人は、まず楽典をしっかり勉強して「長=メジャー/短=マイナー、‥だからこの和音はメジャーなんだ」といったことがわかるように学習しましょう。 ちょっとしたライブや披露宴・パーティで演奏する曲を作りたいなら、まずはポップスで多用される程度の7thまでのコード進行を勉強すれば、伴奏付けや曲作りに対応できるでしょう。 和音コード表記の優れた融通性は、「根音から順に上へ3度ずつ積み重ねていく」という表記によって、ハイテンションの構成音を含む和音コードの表記を可能にしました。「root(根音)、3rd、5th、7th、9th、11th、13th」と奇数並びで積み重ねていく表記方法なのですが、「root、3rd、5th、7th」の各音の上に、増8度あるいは減8度の構成音を含むと解釈したほうがスムーズに理解しやすい場合には、偶数度の構成音を表記してもいいのではないか、というのは検討事項です。たとえば、1960年代のロックンロールにある「C(ドミソ)の和音の上に、ミ♭が乗っている」というのを、「ミ♭はレ♯と読み替えて、♯9thのコードとして覚えましょう」なんていうのは無理があります。「rootの上に長3度の3rd、短10度の♭10thが乗っている」というほうがよほどわかりやすい。通常は「♭9th/9thを超えるハイテンション構成音は『非和声音』扱いでいい」ということになっていますが、「わざわざ♯9thや♯11thをコードの右上に付記するような和音が多用される楽曲において、他の非和声音は付記するのに、♭10thは偶数度数だから付記しない。もしくは♯9thとは思えないけれども♯9thってことにしておく 」よりは、「半音低い非和声音は2度下行して解決する場合が多い/半音高い非和声音は2度上行して解決する場合が多い(たとえばドミナントのG7上の♭9th=ラ♭→ソ:根音Cの和音の5thへ解決。ドミナントのG7上の♯9th=ラ♯→シ:根音Cの和音の長7度M7thへ解決。ドミナントで3rdはシであるG7上に乗った♭10th=シ♭→ラ:根音Cの和音上の長6度6thへ解決する場合もある)」のです。‥ってことで、「rootから上に1オクターブを超えて並ぶハイテンションの和音構成音には、偶数度数もあり得る」(「なぜ、1オクターブを超えて上だけ、奇数偶数度数を含むのか」と問われても、「なんとなく、倍音列は高次倍音になるにつれて音程の間隔が狭くなり半音間隔になるのにならって‥」というぐらいのことですが)、すなわち「root、3rd、5th、7th、9th、10th、11th、12th、13th、14th、15th」と数えてハイテンション構成音を付記する方法はあり得る」と提案しておきます。 ギターを演奏する人たちには、コードの勉強に関心のある人が多いと思いますが、「4度重ねで調弦された楽器で、3度重ねの和音構成音を学習する」のは、7thまでは理解できても、9th以上のハイテンション構成音ともなると「とりあえずフレットの押さえどころを手の形で覚えておくのみ」にならざるを得ないのは無理もない、というほどわかりにくそうに思われます。(「それなら3度重ねで調弦するか、ウクレレみたいに開放弦をC6の構成音にそろえて調弦すればいいかも。たとえば第3フレット位置で、第5弦のドと第6弦のソはオルターナティブの低音で『ド、ソ、ド、ソ』と弾くのが簡単だからそのままにしておくとして、上の音は第5~1弦へ順に『ドミソラレ』と鳴るよう『C6 add9』に調弦し、第4弦ミをミ♭にすればマイナー、第3弦ソを半音上げ下げすれば♯5も♭5もすぐわかるし、第2弦ラを半音上げれば短7度の7thになり全音上げれば長7度のM7th、第1弦のレを半音上げ下げすれば♯9thや♭9thもすぐわかる」と考えるのは、誰でも思いつきそうなことですから、きっと先人たちもあれこれやってみたかもしれません。‥で、「あれ?その調弦の試みでは、メロディーを弾きたい第1~3弦の音域が低すぎる。ギターは、混声6部合唱(ソプラノ/メゾソプラノ/アルト/テナー/バリトン/ベース)の各パート音域で『ほぼベースに相当する第6弦』~『ほぼソプラノに相当する第1弦』の、バランスよい配分の音域に調弦するのが普通だけど、3度重ね間隔で調弦したのでは弦が6本じゃ足りない」なんて気づくかも。「幅広い音域を確保して響きのいい楽器であるのは、やっぱりギターはこの調弦」というのが定番になっているのだと思います)。鍵盤を弾くのは不得手な人も、コードの構成音を学習する際には一応鍵盤を用いて理解するほうが、わかりにくかったハイテンション構成音もすんなりわかるでしょう。 「ジャズの全盛期は1950~70年代のモダンジャズの時期」というように捉えている人も少なくないでしょうが、作編曲の観点から眺めれば「モダンジャズの時期にジャムセッションでやっていた多くは、楽曲形式的には変奏曲。それに、各奏者が即興でカデンツァの名技名演するロマン派的盛り上げを加えた」みたいなカタチで、ジャズ音楽史においてオリジナリティある楽曲を創造的に作ろうとしたのはむしろ、1970年代後半以後クロスオーバー~フュージョンの時期において‥かもしれないと思います。1940~50年代ビッグバンド時代は、楽団には指揮者もアレンジャー(当時はまだコード表記がなかったから和声習得して編曲するのがあたりまえだったし、和声習得したからこそ多人数のビッグバンド編成でも編曲できた)もいて、各地のダンスホールなどを巡業していた楽団が、その後楽団としては多人数の奏者をかかえきれなくなり、"奏者少人数でもできるライブセッション"がジャズ史を牽引。そのため演奏者だけでも盛り上がれるアドリブ重視の歴史があるだけに、"ジャズの作曲編曲"って何やるの?‥と思う人もいるかもしれません。が、「各奏者がアドリブできる部分を盛り込みながら、楽器編成とモチーフのパート配分、形式的に(どのようなアドリブが部分的に即興演奏の不確定要素で盛り込まれたとしても)曲全体がちゃんとまとまるよう考えて設計して作曲する/編曲する。‥たとえば、『この部分は全員でこのテーマのモチーフを演奏し、この部分ではこういうコード進行でアルトサックスからトロンボーンへと順に、自由に各アドリブ16小節、そのあとテーマをもう一度演奏する際は主旋律の担当楽器を変えパッセージから間奏へ‥』などと設計して楽曲を作る」のは必要です。「ジャムセッションのように『最初はテーマのブルースのメロディー、あとは順々にアドリブ即興して、まとめにもう一度テーマのメロディーを演奏する』と打合せしておいたら、ライブ当日にどのジャズピアニストやジャズベーシストが来ていきなり組んで演ることになっても、組合せの妙味で一回性の即興セッションを聴かせられる。‥けど、考えずその場でアドリブに興じるセッションだけでは、やがてどのようなテーマ/モチーフでアドリブしても同じような感じのフレーズになってしまい、奏者自身が飽きてくるのをどうしよう」といった時期に比べれば、フュージョンでは新たな楽曲を作る気で考え設計して作曲編曲されています。 ちなみに、近代和声も多声部書法も学ばずに、ミニマル(反復音楽)とダンス音楽を融合させると、「単純な和音づかいでコード進行の型を繰り返し、大音量で比較的単純なリズムによるノリノリの勢いのディスコ音楽」が一世風靡したもののすぐ飽きられた‥というのは1980年前後に米国ですでに試みられたことで、その若干の後(時期的にはほぼ同じ)に登場したフュージョンは、作編曲のテクニックはハイレベルなので、コード進行にとどまらずあれこれ勉強しようと思えばやりがいがあります。1960年代後半~70年代に登場したクラシック系のミニマル音楽(S・ライヒ氏が有名)は、むしろ「多声部書法/対位法的にモチーフを繰り返しながら変容し、和音的な響きは偶発的に様相を変えていく」ような音楽だから、ディスコ音楽のコード進行反復の趣向とは異なります(聴いたことがない人は「こんな音楽もあるのか」と新鮮味を感じるかも)。 ◆『和声(ハーモニー)』は、4つのパート(ソプラノ・アルト・テナー・ベース)のメロディーラインと和音の響きを縦横に編める作曲技法です。 おおむね12世紀頃からの多声部書法(2声部以上~おおむね8声部までのパートでハモる場合の、響きのいいハモらせ方≒メロディーラインの重ね方のテクニック)は、17世紀頃までには四線譜及び五線譜の記譜法の発達と共に「対位法」として編纂されました(下記に「※対位法について」の注釈あり)。その後、数々の高機能な楽器の発明が完成度を高めたのを受けて、17~18世紀には「メロディーラインの重ね方だけじゃない、通奏低音で伴奏付けした和音の響きも含めて、縦横に総合的にノウハウを編纂すると、曲作りのプロット建ての今最新の時代様式のテクニックはコレ!」みたいな『和声学』が著されるようになりました。和声学は「4声部で学べば、あとはパートが3声部であろうと6声部であろうと応用は利くだろう」といった趣向です。大編成のオーケストラや吹奏楽の曲が、「大勢いてもみんなで単旋律」ではなく「それぞれのパートにメロディーラインがある」ように作られているのは、対位法と和声のテクニックがあるからです。さらに19世紀には音楽を学術的に研究し論文を著そうとする学者も増えて「17~18世紀のロココ~古典派様式の楽曲作りを勉強するなら、コレが決定版!‥みたいな調性理論と機能和声学」が著されました。 いわば、17世紀には「17世紀の今、最新の対位法」が、18世紀には「18世紀の今、最新の通奏低音の鍵盤和声」が、19世紀には「18世紀の楽曲例を元に分析研究して編み出した、19世紀の今、最新の機能和声学」が登場したわけで、そうした機能和声学は20世紀~21世現在の今では、(欧米だけでなく世界的に)クラシック系の音大芸大生なら誰もが一度は学んだことのある専門教科の基礎科目になっています。「きよしこの夜」などの讃美歌はもちろん、バッハやモーツァルトやベートーヴェンの楽曲の、和音進行や主旋律・副旋律・ベースラインの進行は、ほぼ和声学のルールどおりに出来上がっているので、きちんと勉強すると、クラシック音楽は「なんだか難しい」ものではなく、「なるほど作曲技法のコツを上手に活かして書き上げられた曲だ」ということも理解できるようになるはずです。 和声を学べば、曲作りする際、「洋楽伝統の美的センスにも適うメロディー進行や和声進行を‥と気にかけて曲作りするなら、万国共通にクラシック好きの人々が好ましいと思ってくれるのは、こういう進行だよね」といった勘も働くようになるかもしれません。 1960年代に日本で発刊された『和声-理論と実習-』音楽之友社刊を3巻まで学習すれば、ショパンやリストの曲の和音構成もなるほどと理解可能です。ちなみにこの3巻組の和声教本は、20世紀前半の大正~昭和前期に西欧各国に留学して、伊独墺仏あたりの当時最新の近代音楽の作曲技法や管弦楽法・楽曲形式・和声学を学んで帰国し東京芸大作曲科の教官をしていた先生方が、寄り合って知恵を集めて編纂した和声教本で、ムジカフィクタやセカンダリドミナントやゼクエンツや非和声音を含めた多声部の編み方なども、カリキュラムに沿ってちゃんと勉強できるという優れものの教本です。ハイテンション和音の転回形の記し方(西欧伝統の和音記号では9th以上の和音の転回形を記そうとすると複雑でわかりにくいが、東京芸大方式はすっきり記せる)や、根音省略形として理解すると和音構成がわかりやすい和音(とくにⅦの各種和音のうちⅤドミナントの和音類と見なしていい和音はⅤの類として理解すると簡単)の記し方、セカンダリドミナントの記し方は、当時、国際的にも画期的な先駆の和音記号表記方法を提起しました。(東京芸大の教材に新たに採用されたという『新しい和声』2015年刊は、通奏低音の表記方法や、旋法も含めて「必ずしもトニック/サブドミナント/ドミナントの進行の型にこだわらず(偶成和音と見なさなくても)よくある和声進行の範例はある」ということへの理解を促しやすいですが、『和声-理論と実習-』を少なくとも第3巻半ばの偶成和音を学習するレベル程度まで学習してから参照すれば、理解しやすいでしょう)。多々ある他の和声学の教材本を参照してみれば、『和声-理論と実習-』3巻組がどんなによくできた教本であるかを改めて感じる‥というほど優れた教本ですので、作曲を学習する課程でスルーしてはもったいないです。(大阪音大などの作曲科入試の和声課題も、ヤマハ指導グレード4級和声課題も、『和声-理論と実習-』の学習で充分通用します。『新しい和声』の教本の「まえがき・あとがき・解説」には、東京芸大の和声の教科書が改訂刷新される可能性についても付記されていますが、もしも「東京芸大の和声教本が内容や記号表記などを全面改訂して刷新する」ってことになったら、全国の音大芸大や教育大・ヤマハやカワイのグレード筆記試験・中学高校音楽科指導要領や音楽教員採用試験の筆記課題も、カリキュラムを組み直すなどあちこちで多大な対応が求められることになるかもしれません。その際は、弊舎も東京芸大方式に準拠してカリキュラムを考えますのでご安心ください。音楽学校で副科和声を習ったまま忘れかけている先生方も、その時になってあわてて近代和声やジャズコードで用いられている和音などを学び直すよりも、今からぼちぼち学びましょう)。『和声-理論と実習-』では、「『長調/長音階』と『同主短調/和声短音階』の2本柱で構成音をあらかじめ覚えて和音記号を理解する」との述べられ方が特徴で、ジャズ和音記号の「『長調/長音階』の1本柱でジャズコードに準じた和音記号を記して理解する‥ジャズコードさえ知っていれば、根音をローマ数字に置き換えればいいだけ」といった表記の仕方とは、"同じような和音記号が記されていても和音構成音が異なる"場合が多々ありますので、互換性をわかって解釈できるといいです。たぶん、20世紀のような「クラシックの人はドイツ語で音楽理論を学んだし、ジャズ・ポップス・ロックの人は英米のコードを学んで、同じ日本の音楽業界にいてもなんだか別々であまり疎通がない」みたいな状態は、今後も相互交流で変わっていくでしょう。これまでコードのみの知識で音楽理論や作曲技法を学んだ先生方も、時代の変わるこの過渡期に和声も学んでみませんか。弊舎では、コードと和音記号をともに記すなどで教え方を工夫しています。 機能和声の教本(下記に「※機能和声とは」の注釈あり)で、和音の第7音や第9音へ至る進行には「予備が必要」と記されていることについては、「ジャズやボサノヴァやポップスでは、前後の和音も M7th や 9th や 11th や 6th が多用されているような曲においては、予備からの引き続きでなくても、とくに奇抜な感じで気になる‥ってことはない。なぜ属7の和音の7thだけは予備が不要なのか、‥それはバロック期からすでに属7の和音は多用され聴き慣れていて、奇抜な感じがしなかったから。『予備』は、人々が未だあまり聴き慣れていない和音でも違和感なくすんなり聴きやすいように構成音を前置きする思いやりのある音づかいで、「非和声音が解決進行した」と見なしてさしつかえないように配慮された進行なんだ。‥で、聴き慣れてくれば「非和声音じゃなくレギュラーな和声音という扱いでいいんじゃないか」ということで、予備不要で多用される場合も増えた。ちなみに、とてもいい感じに曲が仕上がって、ふと楽譜を見たら『あっ、この9thの音は手前に予備がある』なんて、あとで気付いたりして、それなら『予備があるといい感じに仕上がるぞ』とノウハウをちょっと書き記しておこう‥ってことだってあったでしょう。それを後世の人たちが議論のネタにして『第7音や第9音に予備はあるべきか?なくても許容とするべきか?』なんて言い合ったって、本質はそういうことじゃない。いい感じの仕上がりになるためのノウハウをちょっと付記しただけ。それにこうこだわってみたら、こんなにいい仕上がりになる‥と思えたらこだわればいいし、こだわりすぎていい仕上がりにならない‥という場合はあまりこだわらなくていい。昭和の素朴な愛唱歌が好きな人たちへジャズっぽい曲をお聴かせするなら『ハイテンション和音にはちょっと予備を付けてみようかな』と考えればいいし、印象派やジャズ・ボサノヴァが好きな人たちへフュージョンの曲をお聴かせするなら『ハイテンション和音をいきなり用いてもかっこいい和音と思ってくれるだろう』と考えていい。ケースバイケースの柔軟性があるほうがいい曲作れそうだよ」などと、時代様式の変遷やジャンルに応じてコメントを言い添えるといいでしょう。‥で、「この和声教本では、第7音や第9音に予備を用いた例が示され、その課題をやってみようということですから、予備を用いてみましょうね」「和声の試験には、予備を用いることを想定した出題がなされるだろうから、予備を用いるよう勉強しておこう。予備を用いる書法で書ける人が、曲によりけり予備不要で和声付けするのは簡単なことだから」、あるいはもっと学習が進んで「印象派やボサノヴァやジャズの曲のプロットだと想定すると、どのような和音で編めますか」とゼミのお題にしてもいいでしょう。同じ課題で受講者同士が作って提示し合ったの曲例でも、「これは旋法的だ」と分析した人と「これは平行和音だ」と分析した人と「これはジャズによくあるブルーノート的な変位音だ」と分析した人とでは、その分析で得たノウハウを活かして作れる楽曲の作風に相違が出てくる‥ってこともあり得ます。ゼミなら、曲を習作した本人が「自分はそういう解釈ではなく、こんな音づかいを応用してみようと試みて作ったんだ」とじかに言明することもできますし、自分の気付かなかった角度から他の人が発見したことがらに新鮮さを感じる場合だってあるでしょう。「正解はひとつだけ‥ではない。が、できるだけ適した好ましい良い解を‥と追求してみるべきではある。あの人も、この人も、どうにか素晴らしい発展があるようにと願って頑張っている‥ということへ敬意をもって、他者の意志と人間性を尊重しつつ、自分も個性的に楽しく共栄共存して快活に音楽を追求しよう」‥学ぶにつれてそう思える心境へと促してくれるのも、音楽の徳です。印象派やジャズ・フュージョンで用いられているようなかっこいい和音やボサノヴァのかっこいい転調で曲作りすることへ関心があるなら、近代和声やジャズ理論へ興味は向くでしょうが、ハチャメチャにならずにちゃんと理解できるためには機能和声を学んでおくといいです。 どのような和声教本にも、「連続完全8度、連続完全5度、増音程は用いないように」というのは共通して記載されている事柄です。が、たぶん「"ほぼ三和音ばかりで7thは属7のみ"といったシンプルな和音づかいで4声のパートを編む和声課題において、完全5度はきつすぎる感じが前面に出る場合が少なくないので、柔和な感じの進行に配慮するほうがいい(連続完全5度は用いないが、ソプラノが順次進行する場合の並達完全5度は、きつすぎるほどの感じではないだろう)ってことでしょう。これには、フォーブルドンの様式で第1転回形の和音が好まれた‥というルネサンス~バロックの時代様式も影響しているので、それ以前の時代様式には連続5度は多々あるようです。19世紀のロマン派舞曲ポロネーズなど、メリハリの利いた曲では、毅然とした凛々しい感じで完全5度を用いるんですけどね」「増2度進行は、なめらかな旋律線の運びにおいて、多少でも無理したような違和感が気になる感じはあるから、避けるほうがいい‥とされています。でも、ジプシー音楽など民族音楽には、増2度を好んで用いる曲もあるようですよ」「連続8度は、たった4声で各パートにそれぞれ異なるメロディーラインを配分しようとする趣向の和声課題において、4つのパートのうち2つがユニゾンでは、もっと巧みな別案があるはずだということを考えてごらん/(もしくは、連続8度で連結すると連続5度も伴う場合が多いので、その箇所は考え直すように)」とのコメントを添えて指摘すれば、たんに「これは禁則、連続5度や連続8度や増音程は禁則だと教本にも載っています。だから間違いです/間違いさえなければ正解です」みたいな、紋切り型で融通の利かない頑固な言い方をしないで説明できます。教本に記載されていることだけを、それが全てと思い込んで「最適か、良好か、許容か、禁則か、‥そう教本に記載されているから、このように和声付けすれば正解なはずだ」といった考えで紋切り型になるよりも、「この第1転回形の和音は、密集配分でも開離配分でも良好とされているけど、オクターブ配分だとこんなに快く響く」「この並達1度は許容されているけど、音域的に8度へ至るのが可能なら、並達1度よりも8度に至るほうがもっといい響きがする」などということを、思い浮かべて弾いて聴いて確かめて和声的な音感センスを磨けば、和声を学ぶのは楽しくなります。型どおりに過信して融通が利かないような学びかたでなく、弾いて聴いて確かめて、右脳も左脳も活性化、思考力もクリエイティヴな意欲も高まるように学びましょう。 隆盛で発展性と将来性が期待される産業では、必ず豊富なアイディアや創造する意欲や新鮮で実現性あるよい提案とパワーを伴うので、思考力やクリエイティブな意欲をもつことはたいせつです。(そのためには「和声教本の記述文体を、"命令と禁止と指示"みたいな感じの文体でなく、アイディアを考えクリエイティヴな意欲を伸ばしたくなるような文体で述べる(クラシックではこれはバロック期から一貫したオススメ事柄、モダンジャズではあまり気にしないけどデキシーやビッグバンドのジャズではおおむねクラシックのオススメに倣っている事柄、ポップスでは曲例はよくあるけどクラシック古典派にはほとんどない事柄、たぶん元々は三度構成の和音とは異なる考え方で見つけた和音をジャズコードに適合させて説明された事柄‥などと解説していけば、音楽理論や作曲技法は偏狭で排他的な考えから著され公表されたものではなく、志向の寛大さと発展性を喜ぶ気持ちがわかってもらえるんじゃないか、と思います)」「『和音進行の型』のことを、カデンツ/ケーデンスと称するのをやめる(‥もともと、"中世の聖歌の句読点/息つぎに該当するような長音の手前に、どのようなパターンの音づかいが用いられると、スムーズな安定感で息つぎに至れるか"との研究から使われるようになった用語だけど、『バロック期以後の和音だらけの楽曲はカデンツだらけだ』みたいな解釈は現状に合わないので、『和音進行型』、もしくは『和音進行1型/2型/3型』とあえて数字を付けなくても『TDT型/TSDT型/TST型』とそのまま並べ書きしたってすんなりわかりやすいかもしれません。ちなみにジャズ理論では『サブドミナントはSDと記す』と記載された本が多いですが、クラシックでは『サブドミナントはS』が普通なので『TST型って何だ?TSDT型と同じことか?』と思わないでね。『4型/TDST型』は1960年代のロックやフォークには多いですが、クラシックの和声教本には載っていません)」「聞いても話してもいい感じの用語をできるだけ用いる(たとえば、なだらかな副旋律を"オブリガート"と称するって、「メインとなる歌のメロディーラインと、低音でベースが担当するメロディーラインとの間に、もう1本、副旋律を付けてみましょう。オブリガートっていうんだよ。"感謝、ありがとう"っていう意味だ。さあ、上手にいい感じでハモれる"ありがとう"を付けられたかな」‥なんと!言いやすいんでしょう)。「時代状況も変わってきているし、柔軟な対応が必要だ」と気づいたときに、「とにかく教えられたとおりに忠実に」とか、むやみに「何だっていいじゃない、あれこれこだわらない、上手さとか伝統とか気にしない」とか言っちゃうんじゃなくて、「たいせつなこと、未来へ伝えたいこと、優先したいことはこれとこれ。そのためにはどうすれば教えやすくなるか」を考えて、実践的にやりながら検討を重ね伝えていく‥との姿勢が必要になります。「和声ってもともと、曲作りしやすくなるための理論と技法なんだよね。だから、曲作りしやすいために信じていいことを優先して、曲作りしにくくなることは気にせずスルーして、将来作りたい曲の作風に活かせることをアイディア練って工夫して、『伝統的な系譜から説明を求められても妥当である』と言える程度には説明上手になって、いい曲作ろう」と思いましょう。「とにかくドミソの和音を弾けば C メジャー」といったおおざっぱなコードよりも、もっと繊細な和音構成音配置の響きとメロディックな音進行を学べるので応用も利くのが、和声の愉しさです。 ※「対位法」について: 対位法は、もともと西欧中世12世紀頃までにグレゴリオ聖歌が編纂されて以後、「聖歌を定旋律として副旋律をそえて歌えばもっといい感じ」とバロック期に発展した作曲技法で、「いい感じにハモれる"オススメの音程や進行"はコレ!」といった方法論もあります。(ちなみに、グレゴリオ聖歌は、とても単純にいえば「4世紀の頃から、教会で日々みんなで聖書のお祈りを唱えていたら、抑揚や節がついて歌になってきたので、それを後世へ伝えるため収集し楽譜に書いて聖歌の集大成としていこう」ということでローマ教皇グレゴリウス1世(590~604年)が呼びかけて、以後も9世紀頃まで(あるいは11世紀や12世紀頃まで)の何世紀もにわたって記譜法の発展とともに集積が重ねられた、ラテン語聖歌の大集成です。((‥日本でも和歌集の編纂が盛んだった時代だから、人類の歴史ってつながってるね))。初期は単旋律聖歌、だんだんにパートに分けての掛け合いやピッチやリズムの変化でメリハリも工夫され、バロック期以後に和声学が確立されていく頃には「プロテスタント系の讃美歌では各国語の歌詞で歌われるようになり、和声的な合唱や楽器伴奏が普通に付けられるようになった」のです。音楽研究者の人たちは、「17世紀~18世紀前半バロック期の『対位法』や『聖歌の定旋律を必要不可欠とする厳格対位法』」と、たんに「複数の旋律を重ねながら編む作曲技法」とをごちゃ混ぜにして「あれもこれも対位法だ」みたいに語ると、研究しにくくなるといった懸念への配慮から)、バロック期の対位法が編纂される以前の「あまり楽器が発達していなかった時代に、大陸各地(イタリア・ローマからは遠い各地の修道院など)で芽吹いた素朴な歌パートのハモらせ」をも含めて「ルネサンス~バロック初期の対位法」といったり「多声部書法」という場合もあり、「声部というと、歌の声域パートの"ソプラノ/メゾソプラノ/アルト/テナー/バリトン/ベース"を思い浮かべて、それに適合する和声学を考えがちだけど、もっと音域の広いさまざまな楽器を含めて考えたい」とか「ロマン派~近代の和音構成音の音づかいも含めたりするので、バロック期の厳格な対位法というわけではない」といった場合には、「複旋律書法」とか「多旋律書法」とかいう場合もあります。曲の「作り方の技法」だから、「多声部作法/複旋律作法/多旋律作法」とかいうのはどうか‥とも考えてみたのですが、「『作法』といえば茶道などの立ち居ふるまいの"所作の方法"」との意味が通用しているので、「『書法』のほうがいいだろう」ってことで、未だ音楽用語としてはっきり定義付けされているわけではありません。「同時に鳴る和音」は楽譜に書く際には「縦に垂直的に連なる和音」で、和音コードはこの縦の和音構成を理解するのに優れていますが、「横に水平的に編まれる旋律線の動き」は、縦の和音構成だけでは把握しきれないわけです。(管楽器は単音しか吹けない楽器が多いですが、鍵盤楽器など和音を弾ける楽器の楽譜やバンド・アンサンブルのスコア楽譜を初めて書く初心者へは、和音と旋律線(メロディーライン)との記譜の仕方をしばしば"織物の縦糸と横糸"に見立てて説明します。「スコア楽譜の構成は、五線譜を横へ伸ばして小節を継ぎ足していける」のに対し、織機の構造からいえば(通常は織機を垂直に置いて布を織るわけではなく)「縦糸は手前に継ぎ足していくらでも伸ばしていける/横糸は織物の幅が決まっている」ので、正確には縦糸を五線譜の横線に見立てて説明することになりますが)。「対位法」は、基本的にはこうした「横へいくつもの旋律線が同時並行的に編まれる作曲技法」をいいます。多声部作法/複旋律作法/多旋律作法‥などは、どれも「対位法的な作曲技法」です。 ※「機能和声」とは、「長調や短調の調性があって、音階音には主音・属音などの役割があり、和音は3度重ねで根音・第3音・第5音・第7音というように重ねた響きであり、ドミナントはトニックへ進行するなどの定番の進行のカタチがある和声」です。たとえば、「ハ長調のドミナント7th(属7)の和音は、トニック(Ⅰ/Ⅵ/たまにⅢ)へ進行し、導音シ→ド主音へ解決進行するのが普通。ハ長調の属調はト長調で、調号は♯が1つ」などを前提として記されている和声教本は、「機能和声」の教本です。2016年現在、世間で入手できる和声教本やコード進行の教本の大半は、こうした楽典と機能和声に拠る説明を述べています。 ちなみに「機能和声ではない」‥のは、「未だ調性が確立していなかった西欧16世紀以前の音楽/日本の伝統邦楽や世界各地の伝統民族音楽/1オクターブに12音を配置したうえで七音音階がある‥という考え方ではない音楽(東南アジア・インド・中近東・アフリカなどの伝統エスニック音楽には、1オクターブ12音ではあてはまらないような音律の音楽、平たくいうと鍵盤楽器では弾けないピッチの音を含むためドレミ‥とかで歌えない類の音楽がある)/20世紀の無調的な音楽(クラシックの前衛モダン音楽・音列技法の音楽・フリージャズなど)/無調ではないがトニックとかドミナントとかがはっきりしているわけでもないミニマル音楽」など。「ドミナントらしき音づかいはあるが、必ずしもトニックへ進行するわけでもない/そもそも四七抜きの5音旋法ならば、導音シ→ド主音へ進行するどころか、7番めのシの音は含まれていない/和音の重ね方が3度毎に上へ重ねていくという考え方ではない」といった楽曲では、機能和声では説明ができない音づかいの慣例が多くあったりします。 ついでに述べると、5音旋法は「主音([宮]キュウ)から5度上([徴]チ:[宮]は"一貫した安定感"でたぶんトニックと同義、[徴]は"前へ先へと方向づけて進もうとする力のある動き"でたぶんドミナントと同義です。多くは完全5度ですが、減5度の場合も[徴]と言うかは知りません)の音との間に、2つの音([宮]寄りが[商]ショウ、[徴]寄りが[角]カク)を含み、[徴]と[宮]の4度間隔の間に1つの音([羽]ウ)を含む」のが普通だそうです(伝統邦楽は完全5度よりも完全4度を基軸にしたような楽曲が多い‥とは言われているので、[徴]と[角]とをごちゃ混ぜにせず「[徴]と[角]とは異なる」との認識がはっきりしているのかな‥とは思いますが、よく知りません。[商]は器用に機転と融通が利いて商い上手で需要と供給に応じて交換上手で分配上手、[角]は才気鋭敏で気取って人気があり粋でかっこいい、[羽]は浮かれて舞い上がるような気分で軽妙に心楽しむ(上行形と下行形はしばしば異なる音になる、というのはムジカフィクタと共通点があるかも)‥っていう感じかしら?‥もしそうだとすると、洋楽のサブドミナントと伝統邦楽の[角]とはちょっとニュアンス違うのかな?「Ⅳ→Ⅰ」で安堵や安息を感じる洋楽とは異なり、邦楽ではイケてる気取った気分でノリノリになるムードが高まるんだろうか?「[嬰角]は[角]とはちょっと異なる性質を持つ」なんていう説もあって、それがもしかして下属音と似た性質だったりするのだろうか?‥などと思いますが、こちらは伝統邦楽のことはよく知らないので、伝統邦楽の理論研究者の方へお尋ねください。「1オクターブはおおまかに12のピッチで識別できそうだ」というのは、12平均律が普及する以前の時代から、西洋でも東洋でも知られていたようですが、「"5つの音をレギュラーとする5音旋法"と、"7つの音をレギュラーとする7音旋法"が、音楽史における栄えある業績を上げてきている/(その中庸の"6音旋法"は7音旋法へ至る過渡期の旋法とされることが多い)」「それ以外のオクターブ分割方法やレギュラー音数の旋法の試みは、5音旋法や7音旋法ほどには普遍的な音楽理論にはならない」とは言えそうなので、(とくに旋法に関しては)追究すればするほど曲作りしにくくなるような理論的こだわりには没頭しないほうがよかろう‥とは思われます)。旋法は古来からあり「おおまかにいえば、おもにドリア旋法や律旋法から長調系の音階へと変遷してきた」と考えられています(「おもにドリア旋法や律旋法から」‥というのはさまざまな試論や仮説においての"有力説"なのか、それとも音楽学の"学術的な定説"なのか、筆者は知りません)。「隣り合う音との間が半音にならない5音(‥7音旋法はどうしても2箇所に半音で隣り合う‥わかりやすく言うとミファとシドは半音で隣り合っているので、ミファのうちどちらかを、またシドのうちどちらかを省けば5音旋法になる/(この考えでいくと、半音にしても"半音3つ続き"にならない候補箇所はもうひとつあり、それは長音階を主軸にすると"平行短調の導音→主音(ソ#→ラ)"で、和声短音階や旋律短音階のフレキシブルな音づかいになっている)」が構成音ですが、「7音旋法のうち、5音旋法には何がたりないのかな」ではなく、「5音旋法には、(7音旋法や調性理論と機能和声では説明しにくい)5音旋法なりのまとまった考え方があるんだろう」とは思います。なお、近世江戸時代にはあえて半音で隣り合う音を含む「都節」が流行ったと言われています。沖縄民謡の「琉球旋法」も半音で隣り合う音を含んでいます(琉球旋法は「ドミファソシド」という長音階的な旋法ですが、シの音は導音(主音へ半音上行解決する限定進行音)としての機能を強く持つわけではないので、「ドーミファソーシソファ―ミファソー」などと「シ」はCM7の和音上のメジャー7thのようなモダンな響きで用いられたりします)。少なくとも明治の文明開化で洋楽が入ってきた際、それを受容し理解できるだけの当時なりの音楽文化の蓄積は、日本に存在していたわけです(音のピッチを上げる変位音を[嬰]下げる変位音を[変]‥といった邦楽用語は、「♯を嬰/♭を変」との和訳で対応できた‥など、当時なりにリテラシーと専門分野としての音楽の理論やテクニックやノウハウの集積があったからこそできたことです)。昨今流行っている「雅楽的な2度/4度重ねの和音の響き」は、高い音域で軽くハモると不協和感が少なく軽妙に響く傾向があります(その根拠はたぶん倍音。低い音域で大きな音で2度/4度重ねを響かせては、雅楽のような軽妙な響きにはならず、不協和感があるでしょう)。このように、音階や旋法及び和音の音づかいには、時代様式や民族音楽の好みと慣習もありますので、必ずしも機能和声に拠るばかりではない楽曲は世の中に多々あります。が、18~19世紀に作られ世界的に広まった西欧クラシック音楽は、基本的に機能和声に拠る楽曲が大半だと思っていいでしょう。 ジャズの和音のコード表記方法は、たぶんアドリブする演奏者たちの間で「演奏している最中も打合せの際にも「(『ソシレファ和音へ進む前にレファ♯ラドを弾いて‥』などと言うよりも、『G7 に進む前に D7 を弾いて‥』と言うほうが)簡単にわかって便利」といった利便性から多用されるようになり、20世紀後半に少しづつ考案されながら表記のカタチが整えられたようですので、1960年代と80年代とでは表記が若干異なるカタチで一般化されたコードもあります(たとえば「マイナーを『min』と書いたり『-』と書いたりする/メジャーを『maj』と書く」のは80年代では少なくなりました)。半世紀かけて少しずつ変わってきたのです。これまでのジャズ理論の本には、「ドミナントの和音には減5度が含まれる」とまるで必須条件であるかのように記されていたり、「調性確立以前の旋法」を和音構成音にいきなり適用して「コードスケールとアヴォイド」といった説明が記されている本もありますが、クラシックの側から見ると「いびつなことは覚え込まないほうがアドリブしやすいんじゃないかしら」といった感じはあります。(ハ長調なら、単音でも「属音 G はドミナント」、属音上の三和音である G(メジャー)の和音は減5度は含まない。「C の上に白鍵ばかりで3度重ねの和音を積み重ねていくと、三和音なら C(メジャー)の和音、 7th を上乗せすると CM7 の和音になりますが、さらに 9th、11th、13th を上乗せした和音を弾いて『これは長音階だ/イオニア旋法だ』と言えば、『そうではない。和音構成音の話と、調性及び調と音階の話や、調性確立以前の旋法の話は、ごちゃ混ぜにして覚えたりしないように』と言われる」のは、クラシックでは普通です)。 「コード進行は勉強済みだけど、和声は学んだことがない」という人と、「和声は勉強済みだけど、コード進行は学んだことがない」という人とでは、作れる楽曲の作風が異なります。それで、作風の幅を広げ「今の時代だからこそ学べる技法を、あれこれ応用して楽曲を作れるようになりたい」と思ったら、コード進行もジャズコードも和声も対位法も、楽曲形式も楽器編成も20世紀近代和声も‥と、あれこれたくさん学びたくなるのです。ギターとピアノのデュオの曲も作ってみたし、サックスとキーボードとドラムのバンド曲も作ってみたし、歌詞にメロディーを付けてヴォーカルバンドの曲も、混声合唱の曲も作ってみたし‥というようにあれこれ作りたくて、学べば作って演奏するのが楽しくて、‥というように曲作りを学ぶわけです。(何年もレッスンに通っているけど弾くのはいつもこの楽器だけ‥という演奏系レッスンとは趣向がちょっと異なるってこと、ご理解いただけますでしょうか)。 和声はとても面白い学問で、ある時代様式で好まれた音づかいの特徴や、ボサノヴァ・ジャズなどで新たに好まれるようになった音づかいなどが理解しやすくなります。実際のところ、和声を学んでジャズのビッグバンドなども作編曲した人たちが多い時代を経て、「バロック期の通奏低音のメリットを活かして、即興アドリブしやすい音楽で活性化→自分も音楽をやりたい初心者の人たちも、(まだ和声学を勉強するほどの習熟度ではなくても)簡易版のコードで簡単に和音がわかる」みたいなカタチでコードは使われるようになったのですし、大胆な転調やハイテンション和音を多用するボサノヴァやジャズは古典的な17~18世紀の和声や近代和声を理解してその先へ‥と作られているのだから、和声を勉強しないのはもったいない、と思っています。推測ですが、たぶん1960~80年代前半の頃は「ボサノヴァやジャズの音楽家は(苦手でなければ)和声も学ぶことが奨励されていたけど、ロックは和声へ関心を持たなくてかまわない‥という趣向で、日本では1980年代半ば~後半アマチュアバンドブームに沸いた」、フュージョン~R&B系ブラコンが流行った1980年代米国では「ロックやR&Bにおいても、作編曲家たちはできれば和声は学んで本格志向で‥との趣向で融合された一方で、そうでない派はラップ/ヒップホップのブームに沸いた」みたいな現象があって、その数十年後の現在2010年代を今、われわれは生きている‥ってことなんだと思います。‥で、和声を学ぶか学ばないかは人それぞれ好きずきで勝手ではあるんだけれども、もしかなりの音楽好きなら、和声を学ぶほうの選択肢を選ぶほうがいいと思うよ、とは言っておきたいのです。初期のデキシーランドジャズと、日本(大正~昭和初期)のチンドン屋やジンタの音楽は、さほど違わない素朴な音楽だった。米国では、和声も習熟して通奏低音のヒントも得た人たちが、19世紀までにはなかった新時代のジャズを創造的に発展させ、ロックやポップスやR&Bをも普及させた、と理解しておきましょう。 作曲者にとって、「作った曲の楽譜にコードネームを付記する」のは、作曲作業の手順では「ある程度曲が出来上がりつつある状態になった際の仕事」です。「さあ、曲を作ろう。まずはコード進行を書き並べて‥」とかいう手がけ方は、学習途上で「曲を習作してみよう」という際には珍しくない手順ですが、そうした学習段階を超えたら、いつまでもその手順で手がけようとはしないこと。「さあ、曲を作ろう」と手始めに思い浮かべるのは、複数の重層的なメロディーや速度と拍節のビートを伴うフレーズであり、「結果的にこの小節/この拍にはこのコードネームを付記しておけば、アレンジや簡易伴奏付けしたい人も、付記されたコードで処理するDTMエンジニアやレコーディングエンジニアの人も、作業が容易に進むだろう」と配慮して、(付記してもしなくてもよさそうなコードネームをわざわざ)付記するわけです。学習途上では「トニック/サブドミナント/ドミナント」を知っていると、「この和音だけでなく、もっと他の和音を付けてリハーモナイズするとしたら‥」と検討する際に候補が思い浮かびやすいのが便利なのであり、「まだまだ他にも候補は多いはず」と思えば旋法へも関心が向く‥というわけ。 和声やコード進行は、その技法に習熟するにつれて「和声的な曲を作ろう‥と精魂込めて作り上げようとしているだけでも、美しい合唱曲や弦楽四重奏曲は作れるようになる」「コードをあれこれ弾いて、大好きでステキなコード進行を探り当てよう‥と練習しているだけでも、作りたくなる曲想は思い浮かんできたりする」というほど、優れた作曲技法ではあります。でも、そのような曲作りアプローチだけが全てだと思い込んで、いつも必ず「さあ、曲を作ろう。まずはどのようなコード進行で作ろうかな」との手順で曲作りすると、習熟してきた段階で、習熟してきたからこそのマンネリ感につきあたる人もいます。「和音ばかり先行して思い浮かんで、メロディーはいまいち」「曲作り当初に考えてみたコード進行に捉われがちになって、それが曲作りを面白くしない」といった課題に直面している中習者の方は、「そろそろ曲が出来上がる段階で、いろんなリハーモナイズも検討してみたけどこの和音の響き具合でいいってことにしておこう」と思った後に「‥で、このコードネームを付記しておこう」との手順で仕上げるといいです。 若い世代の人たちは、様々な音楽ジャンルを横並びで把握しているかもしれないけど、とても大ざっぱに楽器編成の時代様式をたどると、「鍵盤楽器や管/弦楽器の開発と共に、バロック音楽は発展した(それ以前は歌が中心だった)。ロココ期~19世紀、ピアノの発明や管弦楽団の結成と共に、クラシック音楽は発展した。20世紀、ピアノ・ベース・(新発明の)ドラムスによるバンド編成を定着させ、管の起用に積極的で、バロックの即興性を復活させたのは米国のジャズ。バンド編成に(管よりも)エレキギターを積極的に導入したのはロック。ギターはアコースティックでも、鍵盤は電子オルガンを歓迎したのはボサノヴァ。バンド編成に電子楽器のニーズを大幅に増やしたのは、ジャズとロックを融合させたフュージョン」と思っていいでしょう。魅力的な楽器の発明や楽器編成の組合せは、新たな音楽の仕事を生じさせ、演奏したい人々や適した曲を作りたい人々が増えて、それまでになかった新ジャンルの音楽が登場してきました。レコード会社も1980年代までは、「昔の録音があればそれでいい」などとは考えていませんでした。「アコースティック楽器の魅力の再発見」とか「電子楽器との共演はまだまだ未開拓」とか、楽器編成の組合せを考えれば、可能性はいっぱいあります。 作曲や編曲をする際には、「このメロディーはギターが担当してもいいし、サックスが担当するのも、フルートが担当するのもいいかもしれない」と考えるのは容易で、それだけに融通の利く考え方はしやすいです。が、「自分はこの楽器の演奏が得意」という人は、たとえばサックス奏者なら「サックスでもフルートでもよさそう」ではなくて、「そのメロディー、サックスが担当するなら大活躍。フルートが担当することにしたのでサックスはあってもなくてもいい‥などとは言われたくない」のはあたりまえ。‥で、サックスが担当する想定で曲作りを進めていくのと、フルートが担当する想定で曲作りを進めていくのとでは、メロディーの息つぎや、かっこいい抑揚づけや、聴きばえする音域が変わってくるので、作り進めていくとそれぞれ異なった曲に仕上がるのもあたりまえなのです。が、ではどのような曲を作り進めていこうか‥という過程で、あれこれアイディアを出し合って「その楽器ならではの上手さ引き立つ奏法や、できること/できないこと、あまり知られていないけど練習しながら意外によさそうと発見したこと」などを作曲者と演奏者の間で気持ちよく活発にコミュニケーション疎通する機会を多く設けることは、「新たな作風、新たな時代様式の楽曲づくり」を推進しやすくします。「サックスははっきりした音色だから主旋律担当、ギターはコードをジャンジャン弾いて、フルートは柔らかい音色だからオブリガートの副旋律を担当」などといったよくある基礎的な編成配分を学んで作れるようになったら、その基礎知識を紋切り型にしてしまわないためにも、演奏者と「どんな奏法が得意か/ヤル気になるのはどんなことか/こんなふうに作っても弾けるのか」など活発に語り合って、「やるならヤル気で頑張ろうぜ」との絆で心意気も高めていくのがいいです。 ───────── ─── ──────── 筆者略歴:大阪音大・同大学院(マスター課程)で作曲を専攻。在学中~卒業後にかけて、音大芸大進学塾の音楽理論講師、府立高校音楽講師、大阪音大音楽研究所助手(1983~86年)。東京では、(文化催事・販売促進催事・展示会・地域活性化催事など)催事企画の民間シンクタンク的な出版社で連載/特集記事執筆担当。東放学園専門学校講師(1989~2001年)。関西では大阪ビジネスカレッジ専門学校マスコミ科音楽コース講師、よみうり文化センター作編曲講座講師(2004~2016年)など、講師歴30年以上。ヤマハのコンテストでDTM優秀作品賞(1997年)や最優秀作曲賞(1999年)など。 |
脚注[※2]に「付記」として抜粋掲載した、論点ご説明文: 【1970年代頃~2018年までにあきらかになった、音楽業界の業界的課題の論点】 --- 平成時代のその先へ、素晴らしい可能性ある未来を拓くために --- ───────── ─── ──────── 下記の論点は、すでに改善への議論や対策の検討が進められているものもあれば、未だガヤガヤと言うだけで議論には至らないけれども無関心ではいられない感じのものも、言えないでガマンしている業界人が多くて沈静化しているように見えるけれども対策の必要性は感じられているものもあります。わざわざ列記してみたのは、「どのような改善の課題があって、どう対策をとれるか」がわからないまま何の議論も改善策も検討されず、過去の業界的欠点含みの状態をそのままむやみに輪廻するような未来ではなく、「あの時代は、あの時代状況ではそうするしか仕方なかったし、智慧も考えも足りなかったけれども、平成の次の時代はもっと好ましくこうできる!」と言える未来を拓いて進むためです。「過去に仕方なかったことは仕方ない、それでこれから将来へ向けてどうしていこうか」と検討する際には、(なんとなく思い出話をしてグチを言ったり回想に耽ったりしているばかりではなく)「あれはこうしておけばよかった‥と経験を経て今ならわかる。あれは、こういう可能性があることに当時は気付かなかったが、その可能性には価値があるはずだ」と把握したうえで、未来へ向けて前途を拓くほうがいいのです。 弊舎は「受講者募集:どのような趣旨のレッスン/セミナーで、どんなことができるようめざしてどのような曲作りのテクニックを学ぶのか‥を、あらかじめある程度理解して受講に来ていただきたい」との意向で、ていねいに説明した文章を記載しています。(「ちゃんと学べますので、受講に来てください」というのが本心です。しかしながら、「受講に行ってスキルアップなんかしなくても、『曲を作りましょう』と言いながら音楽指導するぐらい、自分だってできるさ」と安易にお考えの先生方が、「難しいこと考えず、何も知らなくていいから、とにかく好きなように曲を作ればいい」といったやり方で指導すると、その後の(下述のようなことを考えたこともない認識不足で)混乱の対応が難しくなる→そのような音楽教室が世間にいっぱい増えて混沌としては弊舎も仕事しにくくなるリスクがあるので、受講前にここまで説明する必要はないと思われることまで丹念に説明公表しています)。勘違い混じりで考えが散漫にならないよう、「議論するならごちゃ混ぜにせずに議論するほうがいい、ややこしい問題」の論点を、いくつか整理して列挙しておきます。 すなわち、 ●一般的には、合作や共同作で曲を作ってはいけない‥なんてことはない。(ただし、入試/検定/コンクールなど、本人の作曲能力を厳正に審査し認定や表彰が与えられる機会や、『合作・共同作ではないことが応募条件』との前提で行われる機会では、合作や共同作は求められていません)。 ●『音楽の著作権は作曲者と作詞者が持つ』というのは国の法律で定められていることで、きちんと作曲技能を習得した人と習得していない人が一緒に曲を合作した場合に、『作曲技法を習得していない人のほうが作曲者と称する』ようなことが横行すれば、著作権法の解釈に"ねじれ"が生じる懸念がある。『作詞者と作曲者で歌の曲を合作する』というのは普通のこと。"ねじれ"がありがちなのは、たとえば「作詞者(あるいは歌手など演奏者)が多少はメロディーも作り、"作詞も作曲も自作した曲"ということにしたとはいえ、編曲者の手を借りなければ曲を仕上げることはできなかったにもかかわらず、編曲者の名前は付記せず、全て自分で1曲仕上げたかのように誤解される」ような場合。(作曲者と編曲者の名前を併記することにより、「作曲者にその能力が乏しいなら、別の人が作曲した偽作の曲ではないか」との疑問は払拭されるでしょう。が、たとえば「作ったその曲を公表するか?配信していいか?‥などは作曲者が判断することになる」ので、編曲者が「その曲は実質的には多くの部分を自分が作ったにもかかわらず、作詞者・作曲者に承諾を得ないと、(編曲者の立場ではその曲を)公表するとか配信するとかを判断する立場じゃないのか」と複雑な気持ちをいだく‥みたいなことは"ねじれ"の例。「受注仕事で作編曲して、クライアント=発注者へ納品したら、クライアント側で公表や配信をするのはあたりまえ。勝手に流出させないぐらいのことは心得ているし、作編曲料もいただいている」というのはプロの仕事ですが、「(受注仕事ではなく)、作曲者と作詞者と編曲者の3者がそれぞれ対等に自分の創造意欲で力を合わせて曲を合作した場合、たとえ最も実力ある腕前でその曲の多くの部分を作り上げたのが編曲者であっても、作詞者や作曲者に比べて編曲者はその曲についての権利を主張しにくい立場だ」ということは知っておきましょう。「複雑な気持ちを何もいだかず権利も主張しなくなったら、プロの編曲家」というよりは、「編曲家は編曲家の権利を主張する」との気持ちになって、「基本的人権→基本的に、著作する人の"著作する権利や人権"は尊重されるように著作活動していい」と考えたくなったら、(編曲よりも)作曲を主軸とする仕事を手がけるほうがよさそうです)。 ●わざわざ著作権法が制定された意味には、平たくいえば「「努力してコツコツと楽曲を作り上げた作曲者や、あれこれ考えて歌詞を練り上げた作詞者や、その楽曲をどのように素晴らしく表現するか考えて練習やリハーサルを重ねて歌い上げた/奏で上げた演奏者がいる」ということを度外視して、いざ出来上がったら「作曲者や作詞者や演奏者の努力の積み重ねでできた仕事‥なんてことは忘れて、本人抜きにすれば誰でもみんなで大いに楽しめばいい、できれば無料がいい」との大衆感覚とともに広まったのでは、その楽曲仕上げに努力してきた作曲者や作詞者や演奏者はかわいそう‥といったことへの対策という一面がある。ゆえに、安易に「著作権譲渡で、作曲者や作詞者を抜きでやるのが気楽」みたいな考えをするのは、たぶん著作権法のそもそも本来の主旨にそぐわない。クライアント側から発注されての作詞作曲であっても、「その楽曲を使用したら後々も作詞者や作曲者へわずかずつでもお金が分配される」というのは、クライアント側にとっても(作詞者や作曲者との関係が不満でこじれたりせず)安心の制度なのです。(大ヒット作の著作権で何億円も大儲けした稀有な人がいる‥とかいう話題は興味をそそりやすいかもしれないけど、こういう"そもそも論"を地味でもマジメに考えてみる‥というのは、少しばかりのお金を出す大勢の人たちにとっても、少しばかりのお金を受け取る大半の人たちにとっても、きちんとした認識を持つためにたいせつなことです。JASRCは社団法人で公的団体の立場にあるので、「著作権譲渡/売買みたいなことが横行して、著作権についてちゃんと考えようとはせずむしろ著作権について学びたくも考えたくもないがお金だけはほしい‥みたいな人たちを会員として大勢かかえるような事態になるのは、本来好ましい状態だとは思っていない」のではないかと推測します。国民一般的に「ヒット作の曲に関しての楽曲使用料の集金を求めることばかりに励んでいる団体」みたいに思われている印象から、「作曲しようという人たちや作詞しようという人たちにきちんとした著作権の知識を教えてくれて、いい曲が出来上がって世間に広まったら(出版社・レコード会社・プロダクションを通じて仕事した際の直接ギャラ報酬だけでなく)後々も、人々からわずかずつの寄付金集め(広告集めで充当するというよりは寄付金集めに近い)みたいなカタチで集めて、たまに数千円や数万円でも作曲者や作詞者へ還元してくれる‥という公的団体がJASRAC。音楽以外の表現ジャンルでは、そのような公的団体の力添えに(個々の作者が後々も)あやかれるようにはなっていないジャンルも多いけれど、音楽ジャンルでは作曲者と作詞者に法律で著作権が認められているだけでなく、公的団体JASRACが後々も集金して持ってきてくれる制度がちゃんとある」との理解と支持が得られるように‥ということであれば、音楽学校や巷の音楽教室でも著作権について教えやすくなると思われます)。 ●『編曲家』というのは、基本的にサービス業である。(想定問答における編曲家側の主張:業界の総体的な仕事量を安定して底崩れせずに維持する‥との観点から言えば、「格付け的にはかなりのベテランの人が『自分ほどの経験ある人間でもこれほどの安値で編曲してあげたりする』と言い及んで、若手/新人の人たちが『編曲を頼まれると多大な労力がかかるのに、ろくに編曲料をいただかずタダ働き同然』の状態になる」よりは、「通常、編曲を依頼されたら、編曲料はいただくのがあたりまえ。曲の長さや編成や難易や技量によって料金はさまざまでも、プロもセミプロも中習者もアマチュアも、編曲を頼む際には編曲料を払うし、編曲を頼まれた際には編曲料を受け取る」との一線は、従来どおりそう心得ておくほうが業界的に仕事維持が安定し、新人/若手も編曲アルバイトで潤うかもしれない。たとえば、何年もかけて作編曲技法を習得した腕前で「朝から晩までみっちり手がけて10日はかかりそうな編曲依頼」を、「編曲料に15万円もかかるなんてぼったくり、3万円にまけてもらえないか」などといわれる筋合いはない‥そうした立場と料金制を、なし崩しのボランティアやノーギャラにしてしまわない姿勢はたいせつである)。 『作曲家』というのは、基本的に芸術家であり、教育者でもある場合は多い。(想定問答における作曲家側の主張:編曲家の仕事は、「(熟練した作編曲能力を持つ)編曲家自身よりも、能力も経験も浅い他人が作った曲へアレンジを施す」という組合せで受注依頼が成り立っている場合も少なくない。「作編曲能力は職業的な技能。お客様のニーズに応じてその技能を用い、要望にかなうよう編曲仕上げした曲の楽譜や制作済データを納品して、報酬ギャラとして編曲料を受け取れば、それで1件の仕事が済んだ‥との割り切り感覚」が編曲家のプロ意識であるならば、そのサービス業のプロ意識に奇妙に徹したまま新人作曲家育成の方面へ手を出して「ろくに作曲できない人や楽典も知らない人へ教育指導するよりは、お客様サービスのつもりで作曲家に仕立て上げ、それでご満足いただけるのはいいことだ‥との価値観へ帰結する」あるいは「お客様は簡単なメロディーさえ作れば、あとは編曲家へお任せで、10日後(=週休2日なら2週間後)には仕上げて納品お渡し、料金15万円でお手軽に作曲家気分‥といった商売を繁盛させ、作曲家と称するにふさわしい作曲技法は未習熟にもかかわらず"作曲家気取り"のプライドだけは高い人たちを、世間に多く輩出する」といった状態になるのは、芸術的な求道精神においても教育指導の本筋からいっても、いびつで望ましくない。それでも、もしも「楽典は知らない/作曲技法は未習熟‥という人たちが作曲家として多く輩出される」ような状態になりそうであれば、「作曲基礎能力検定(種別や級位段位もあり得る)」の社会的制度導入も検討するほうがいいのではないか。日本の著作権法では「下手の横好きでも自分でちゃんと作曲したら、作曲者は著作者」ではあるので、「作曲基礎能力検定に合格しなければ、作曲してはいけない」などということはない。とはいえ、偽作の横行や作編曲技法の習得度が低い稚拙な楽曲が大量に蔓延して、市場が混乱低迷するような状態になる懸念があるならば、(自由競争の市場であっても)『検定』は「ある程度の習得度の指標と、レベル底上げの学びがい」として作用するのではないでしょうか)。 ‥さて、この両方の主張を「意地の張り合いで膠着状態、ちっとも先へ進まない」みたいな状態ではなく、できるだけ好ましく良い状態で、ヒンシュクにならず頑固でもなく、将来的な成長と発展へ前途を拓いていくにはどうすればいいか、(筆者も考えるけど読んだ人も)しっかり考えて必要な議論は怠らないようにしましょう。弊舎は作曲する側の立場なので、こんなにも編曲する側の人たちの気持ちを慮って弁護してあげる必要はないのかもしれませんが、「音楽業界の苦難のひずみは編曲者へ押し付けておけばいい」みたいな状態になっては音楽産業に栄えある発展は望みにくいので、ちょっと詳しいことも書いてみました。我々が(議論の行く末がどうなるかに左右されなくても)今すぐできることは、「曲作りするなら楽典や作曲技法はあたりまえに知っていて、自分が作曲した曲は、自分の作曲能力で作ったのは確かである」と言えるように学んで腕磨きすることです。 ((JASRACは「登録会員の著作権の利権的側面に関して集金と分配をしたり、海外の著作権保護期間内の楽曲の使用時に著作権に関する国際的な取次手続きをしてくれる団体」であり、「国に代わって著作権を与える機関」という役割を担っているわけではありません。平たく言えば「集金する必要がありそうなヒット曲を作詞作曲した際には、JASRACに登録しておけばメリットあります」ぐらいの話で昭和歌謡がイケイケどんどんになれた半世紀前なら、話は単純でわかりやすかったのでしょうが、著作権の解釈が難しい事態も多い近年、JASRACも単純で簡単というわけにはいかない仕事が増えているのかもしれません。 勘違いしないように念押ししておきますが、現状では「『著作権を与えるにふさわしい程度の作曲技法や作詞のテクニックを習得している人であるか』ということをJASRACが審査判定して、その基準以上を満たすと認められた作曲者や作詞者に対し、JASRACが国に代わって著作権を与える」というような機関ではないのです。‥というのは、もしも「JASRACは国に代わって作曲者や作詞者へ著作権を与える機関である」ということであれば、「将来的に奨励するのがいい新作楽曲の21世紀ならではの様式とは、どのようであるのが芸術的価値の高さを望めるか」について、文部科学省/文化庁と共に大まじめに関心を持って検討すべき今の時代の課題は山積みにあるのですから、‥たとえば「『音大芸大の作曲専攻や専門学校の楽曲制作コースで育成されているのは、このような作曲の仕事を手がけられる人材だ』という実態の総体的な把握と概観/"クールジャパン"人気で国際的に通用する楽曲の経脈に、(一過性のブームでなく)芸術的価値ある新たな伝統の発展を望もうとすれば、文化政策においてある程度の方向性は(曲を作ろうとする人々や演奏しようとする人々や音楽業界関係者の誰もがわかりやすいように)示されるのが普通であって、一過性の流行歌のとっかえひっかえで音楽文化のブームが牽引されては疲弊していくようなやり方ではなく、競争と排除による活力に依存するのでもなく、もっと好ましいやり方を文化政策として示して(『いろいろな作風や様式が多様に存在するのはいいことだ』との価値観を抑制しないよう細心に配慮しつつも)多少は牽引しようとするのは当然の成り行きである/『権威ある音楽コンクールの作曲部門で求められているのは、このような様式や作風の新作楽曲だ』という志向性とのギャップをいかににじり寄せるか‥の必要性についても検討してみる/(そうしたことについては考えようとせず『どこから著作権関連の楽曲使用料を集金できるか』ばかりに関心が向くようなスタンスでしか世の中とかかわりにくい状況であれば、"ちょっとおかしい‥思考停止状態の者に牛耳られてはいけない"と気付いて奇妙な偏りには注意するほうがいい)」など、JASRAC側から「国の文化政策への理解と啓蒙に頑張っている姿勢」を伴った「利権的側面‥だけではない、著作権」や「わざわざ創意と労力と資金をかけて、新作楽曲を著作するなら、むやみにあれこれ試行錯誤して迷うよりも、『価値ある著作、価値ある新作楽曲の演奏により、音楽産業および豊かな文化的社会の将来的発展が望めるのは、このような志向でこのような様式だ』と認識して、文化政策にも好ましく適した信頼と成功を上げられるように頑張るといい」といったことは語られるはずです。 ついでに言えば、「価値ある」とは18~19世紀においては「王侯貴族が美しいと認めてお買い上げになる作品≒価値ある芸術作品」「王侯貴族が誇らしげに召しかかえる芸術家≒価値ある一流芸術家」というのはわかりやすい価値判断でしたし、20世紀の日本においては「戦後の混乱で傷ついた民衆の気持ちを浄化し、情緒的な感動や優しさや共感を取り戻せるよう作用した昭和歌謡(JASRAC設立に多大に関わった古賀政男氏に対しては、その意味で敬意が表されるのも当然ではある)は、音響工学や録音媒体の技術的進化とともに音楽産業の流通的発展および市場化の確立やマスメディアを通じての音楽放送の機会を拡張し、本格的な民主主義社会へと変容していく社会制度の広まりとともに世間への"価値ある働き"をした‥ということで、(流浪の旅芸人のドサまわり娯楽稼業みたいな卑しい職業ではなく)社会的に栄誉や名声や豊かさといった"ごほうび"が与えられる期待の産業へと変貌した」との時代もありました。そしてすでに半世紀以上が経つ2017年現在、たとえば「ポップス歌謡の作曲家や演奏家やロックミュージシャンも、楽譜の読み書きぐらいはできる人が大多数。『音楽教育といえばクラシック音楽』と思われていた状況も変化して、カラオケ歌謡教室で音楽教育の指導スキルを持ちたい歌手の人たちもいる。クラシックの管弦楽団の団員になったら、アニメソングのメドレーなどクラシック以外の楽曲を演奏する機会も多い」などなど‥というぐらいに、音楽業界の状況も変わってきています。が、いったい何がどう変わってきているのか、その変わってきている今の状況に「総じて適した"音楽産業や文化政策の志向性と方針"とはいったい?」「これは今でも通用する価値観か?、これはもはやこだわる必要はほとんどない価値観か?」をどのように心得て念頭に置いておけばいいのか、音楽業界人関係者のみならず一般市民の人々にもある程度共通の時代認識のもとで示されていい時期だと思われます))。 ●『作曲家と共に仕事ありきでスタートするレコード会社やプロダクション』と、『カラオケ制作を主軸とする編曲家集団のようなプロダクション』とでは、たぶん異なる業態事情の認識や主張をかかえているかもしれない。(カラオケは、二次的編曲及びサービス業が主軸である限り、たとえ「歌唱力をデジタルスコアで評価して表示する機能」が「アバターが『もっとヴィブラート付けて音程を正確に歌えば得点アップするよ』とアドバイスしてくれる機能」へ進化したとしても、「ボーッと歌ってんじゃねぇよ!オマエさんも勉強してオリジナル曲を作れよ」と激励する方向性へとアバターが進化することはないでしょう。「ボーッと歌ってんじゃねぇよ!オマエさんも勉強してオリジナル曲を作れよ」と激励するのは、人間の意向、人間が望む方向付けなのです)。 ● 音楽業界には「録音物を市販して売り上げが上がったら、著作した作曲者や作詞者だけでなく、その曲を歌ったり楽器演奏した音を収録された演奏者にもお金が分配される」という制度と公益法人があるので、金銭面の処遇に関してはむやみにノーギャラとせずともいいぐらいの条件はそろっているはず。芸術芸能には様々なジャンルがあるが、とくに音楽業界は「専門教育機関~趣味の文化活動までカリキュラムも存在していて、楽器店やレコード店の市場もあり、JASRACもあり、コンサートホールなど活動の場も過不足なく存在し、学校教育では授業科目にあり、音楽教育者の養成には国でも民間音楽教室でもいいかげんでない制度が用意されている(‥そうした状態ではない芸術芸能ジャンルも多いのに‥)という意味では、健全化推進は比較的容易な条件が整っている。一般市民がまともに理解できる説明で理解浸透が進めば、「制作された録音盤/録音ファイルの収録に際して、歌った歌手や楽器演奏した演奏家は、制作に際して練習やリハーサルや本番で多くの労力(労働力)を注いだのだから、お金を得る側の立場」「その録音盤/録音ファイルを聴いて、自分も歌ったり楽器演奏したり聴いて楽しもうという人たちは、お金を払う側の立場」というのは、ナットクしてもらいやすいと思われる。 なお、新作楽曲が「特定の歌手/演奏家の側で"持ち曲"として作曲オーダーされた」というわけではない場合、「もしその録音を聴いて、『自分もコンサートでその曲を演奏してお金を得たい』と思う歌手/演奏者がいるなら、そのコンサートを有料にしてチケットを売って、わずかチケット1~2枚分程度の金額の楽曲使用料は支払えばいい。プロであろうとアマチュアであろうと、その曲が好きで演奏しようというなら、自由に演奏活動すればいい」と作曲者側は言いやすい。(DTMで試聴盤も制作できるようになる以前の1980年代までは、試聴盤やデモ盤であろうと、最初に録音する際に演奏してくれる人はどうしても必要だったので、「その曲を最初に演奏する人が抜群の歌唱力/演奏力を持っていて、そのまま"持ち曲"として活動すれば、仕事が成功する可能性は高い」とは言えた。その曲を"持ち曲"としている歌手/演奏家+レコード会社側にとっては、「"持ち曲"の用意には多大な労力とお金を使っているのだから、他の歌手/演奏家たちが出しゃばってその曲をネタに大々的に演奏活動したりしないでほしい」との主張とそれに対する業界内の配慮は当然であったし、今もその配慮はされている)。DTMの登場で、演奏者の人たちは「演奏する前にまず、どのような曲か、好みに合う曲か‥を聴いてから検討する」ことができるようになった。「"持ち曲"を用意して演奏活動する場合は、他の大勢の演奏者がやたらその曲をネタにして演奏活動することをある程度抑制して、『あの歌手/演奏家といえばあの名曲』と掲げやすい」メリットと配慮があるし、「特定の演奏者が"持ち曲"にしているわけではない楽曲は、『集客力30人のライブなら採算がとれる演奏者の人たちもそれなりに』『集客力1万人集められる演奏者の人たちもそれなりに』‥ただし或る演奏家の演奏活動の功績によってその楽曲が人気のヒット曲になった際でも、持ち曲のように占有的にではなく、他の演奏家の人たちがどんどん演奏したりすることだってあり得る(‥作曲者や作詞者にとってはそれはうれしいことだが、演奏家が『自分の多大な功績があってこそなのに』と不満に思わないためには、演奏家は演奏活動や録音販売物で収益を上げた際に所属プロダクションとの間で満足いく分配を受けられる契約をすることもたいせつで、その契約によっては作曲者や作詞者よりも演奏家のほうが収入高ということも珍しくはない)」といった市場がひらかれているのかもしれない。 (30人のライブなら「チケット売上げから分配」の作業はシンプルだろうけど、「著作者だけでなく、演奏者も料率に応じて後々お金を受け取る」ようなカタチでレコード会社やメディア会社を介してリリースするなら、「どの程度の人数の規模で制作して、どの程度の集客があるなら、どの程度の料率でも(あまりに微々たる金額でなく)それなりにまあまあギャラ相当と思える金額が各人へ行き渡るか」も想定して、むやみな憶測での不公平感や一攫千金の妄想を防ぐほうが仕事がしやすいのではないか。「チケット1枚分程度の楽曲使用料でも、10曲演奏すれば、その金額をわずかだと思えるか」は集客人数規模による。演奏者が「自分の作った曲もあれこれ含めてライブできればいいなあ。そうすれば、自作の曲については自分が著作者の立場」と考えたくなるのはムリのないことだ、とは思うよ。 ‥で、もし「作曲基礎技能検定を設けて、 『丙類:記譜法/楽典/コード進行(丙)』 『乙類:コード進行(乙)/和声(及び合唱曲書法)/楽曲形式/DTM基本操作(乙)』 『甲類:対位法(及び複旋律書法)/楽器編成/DTM基本操作(甲)』 などの筆記科目を選択して組み合わせて受験できるようにし、 作曲技能実技は 『丙類:歌詞("七・五"調の部分だけでないサビを含み、1番2番がある)に対する歌のメロディー作りとコード伴奏付けを五線譜に書ける(2~3時間。楽器やDTMで音出しする以前に、自分の思いついたメロディーや伴奏はちゃんとあってそれを楽譜に書ける‥だから著作者であるのは確かだ、との確信が持てるように、DTM使用せず楽器試弾なし)』 『乙類:ピアノソロの器楽曲かギターソロの器楽曲のモチーフ作曲(3~5時間。クラシック系はソナタ形式を奨励、クラシック以外はパッサカリアなどを含む変奏曲形式で"テーマ16小節+第3変奏以上"を奨励。楽器試弾なし)に加えて、3~5人程度までのバンド編成か重奏編成か混声四部合唱の編曲ができる(3~5時間。器楽曲はDTM使用可)』 『甲類:和声か対位法の大譜表譜例で示されたモチーフを元に、DTMを用いて、クラシックオーケストラ編成かポップスオーケストラ編成かビッグバンド編成かブラスバンド編成で作曲できる(5~8時間)』 との客観的評価が、(郵送提出したのが検定受験者本人の作曲した曲かは疑わしい‥との余地がないように)本人が会場に行って受験するカタチできちんと検定される」なら、「自分の受けたい種類で審査してもらえて公認の評価認定があれば、仕事がしやすくてありがたい」と思っている作曲者/編曲者/音楽学校在学生や卒業生/作曲や編曲の仕事経験もある演奏者やミュージシャン/趣味からプロをめざしたい人たちは、少なからずいると思います。というのも、「丙類の人は、『ちょっとばかり曲想を思いついても音符もリズムも正しく書けず、歌詞の韻や抑揚を活かしつつサビで盛り上げるような曲にはまとめられない技量の人と、同レベルではない』と自信を持ちたいし、丙類でも自分の作った曲については著作者であると認めてもらって活動したい」「甲類の人が、プライドを持って作曲の仕事をできる音楽業界でないと、丙類の人を風上に置いて従っていたのでは、日本の新作楽曲は国際レベルでは後進国状態になり衰退しかねない」のです。 なお「丙類の1人がメロディーを作り、乙類か甲類の1人が仕上げた合作の新作楽曲は、基本的には"著作権を持つ作曲者が2人いる"との認識。丙類の技量では、コンサートやライブハウスやスタジオで実演する際に『無伴奏で歌のソロ歌唱だけの楽曲でいい』ということはほとんどないので、『乙類か甲類の技量で編曲する作業を経て楽曲を仕上げるのでなければ、プロの実演の場では通用する仕上がりにはならない』のが実態である。((‥ただし歌謡ポップスの実態への折衷案として、丙類の1人のみを作曲者として登録する場合は、合作した乙類か甲類の作曲者が『その曲については、その丙類の1人のみが作曲者として登録され、その曲については(編曲料をもらって)"編曲した"‥ってことでいい。その曲の公表の際、乙類や甲類の人は"編曲者"として併記されることを望むか/望まないか‥を選択できる』ということでの同意が必要。というのも、逆に『乙類と甲類の人しか作曲者として認められない』ということにより、丙類の人が『あの歌のメロディーは自分が作ったのに、乙類や甲類の作曲者の作というカタチで公表された』との状態に置かれるひずみを避けるとともに、一方で甲類の人が『自分の作と明記するほどの仕事じゃなく、丙種の技量では難しい伴奏付けをちょっと手助けしてあげた程度の合作だから、オーディションで自作の歌を歌って気に入ってくれるプロダクションがあったら、そのプロダクションでさらに他の編曲家へプロミュージシャンのバンド演奏に適した編曲を依頼することに関して、自分は関与しない』という場合もあることへ配慮しての折衷案))」ということであれば、「丙類の作曲家にも、運がよければヒット作を出すチャンスはある」「チーフクリエイターとして、部下や若手や学生/生徒にスキルアップを勧めて育てながら仕事をしている乙類や甲類の作曲家にとっても、『半人前でなく一人前になろうと思ったら、あれとこれを勉強して作れる技量を持つように』とステップアップのプロセスを示しやすい」と思われますが、いかがでしょうか。 ‥ついでに、上記の例では、筆記科目は「100点満点で何点か」を配点/採点しやすい出題や設問にすることが可能でしょうが、「マークシート方式などでロボット審査員が簡単に〇×採点」という出題や設問が占める割合が多くなりすぎないのはたいせつ。各筆記科目だけでも、たとえば「楽典とコード進行と楽器編成はすでに合格認定済」と客観的に示せれば、進学や就職やオーディションの際の推薦材料に役立てたい人もいるでしょうし、「次は和声も勉強して、作曲技能実技の合格をめざしながら曲を習作する練習をしよう」などと自分にとってニーズのある科目や得意な編成から着手できるようにすれば、ヤル気も向上心もステップアップしやすいはず。丙類の作曲技能実技で出題される歌詞は、受験する人たちが「日常的で普通のことだ」と思えるような内容であることもたいせつ。検定なので、「歌詞の言葉の抑揚やアクセントやフレーズを活かしたメロディー付けができるか」といった基礎技能を審査することがたいせつで、「曲付けしたくない」と忌み嫌わざるを得ないようなイヤな内容の歌詞や、悲哀や怒りなどの情念が込められた情緒刺激的な歌詞(検定会場で受験する人たちを感涙・興奮させることが目的ではないため)や、曲付けしていたらやたら高慢な気分にならざるを得ないような内容の歌詞は、検定に出題される歌詞としては向いていない)。作曲技能実技の審査基準は、「何点以上なら合格、1点でも足りなければ不合格」とかで配点に悩むよりは、たとえば「甲乙丙の各類のジャンルと編成において、その類の作編曲の仕事をやり慣れている審査員だけでなく、丙類は作詞家として実績豊富な審査員も、甲類はアカデミックな面から曲作りの"技アリ"を見抜いてコメントできる審査員も、乙類や甲類は実際にその曲を歌ったり弾いたりする場合を仮定して指揮者/音楽監督/バンドリーダー/レコーディングディレクターの立場からコメントできる審査員も‥など、丙類4人~甲類6人程度の審査員が、楽譜を見たりDTM試聴したり試し歌い/試し弾きして審査し、ほぼ全員一致で『この類の楽曲については、"作曲できる+楽譜もちゃんと書ける"と認めていい』と合格判定を出せば合格」というほうが、審査方法が妙に複雑にならず合格者も不合格者も審査のコメントにナットクしやすいと思います(「各類で『作曲技能としての習得度が合格レベル以上だと認めて、作曲の仕事をしやすくしよう。プロの作曲家をめざす人も、作曲の指導者をめざす人も、仕事するならまずはこのぐらいの技量は持ってスタートラインに立とう』というのが趣旨なので、『ミニマル音楽なら、そのモチーフを延々と繰り返すだけでも作曲になるんじゃないか』とか『フリージャズの変奏のつもりで、曲の途中から形式にこだわらずアドリブやってくれと書き添えた』とかいう試みを書いた楽譜を、検定受験の場で提出してほしいわけではない」「登竜門のコンクールの審査とは基準が違う」と趣旨の理解を求めておくと、余計な混乱を避けられそうです)。 (この項、2018年3月末~4月11日追記)。 ※ 上記の「1番2番がある歌詞」というのは、「1番の歌詞にはよく合うメロディーだが、そのメロディーで2番の歌詞を歌うと抑揚やアクセントにムリがありすぎてなじまない」というのでなく仕上げられる技能も必要なため。でも、1番が『びっくりしたけど勇気出た』で2番が『ゆっくりしていてのん気だね』みたいな例だと、音節のフレーズは合っていても気分が異なり過ぎて、同じメロディー付けで歌えるか‥かなり悩むので、ひねりすぎの出題はではないほうがいいと思います。(10年ほど前に「作詞できる人は歌詞をお送りください」と募集したら、「1番と2番の歌詞は、サビでちょっと変化をつけて‥などあえて変える部分以外は、多少の字余りや字足らずがあってもおおむね言葉の音節とフレーズが合うような歌詞に仕上げなければならない(‥上記の例で2番が『ゆっくりとしていてのん気なんだね』では、それでも1番と合うようなメロディーライン×リズム感の案はかなりしぼられる)」といった基礎的な知識も習作練習もしたことがなさそうな人たちからも送られてきたことがあったので、『作詞基礎技能検定』というのもあるほうがいいかもしれません。作詞の技能検定の実技は出題するのが容易でない‥と思われるかもしれませんが、「1番の歌詞を提示して、続きのストーリー性をたとえば『春の新生活にふさわしいフレッシュで陽気な歌詞を』と作風提示し、『2番、3番の歌詞を作詞せよ。3番のサビは盛り上がるように、言葉数や行数を増やしていい』と出題する」、さらにハイレベルな選択科目として("メロディーが先、あと付けで作詞できる能力"‥そのような手順でも作詞できるセンスと技能をもつ作詞家の仕事ニーズはあるため、発掘しようということで)「メロディー譜を提示し、そのメロディーの音を試聴可能とし、『春の新生活にふさわしいフレッシュで陽気な歌詞を』と作風提示して、作詞した歌詞をメロディー譜の音符の下に書いて提出する」「提示された英文歌詞の和訳文章を、和訳の歌詞として整え、メロディー譜の音符の下へ書いて提出する」など、出題するのは全く不可能というわけでもないと思われます。 作曲も作詞もクリエイティヴ系なので、「センスと表現意欲がある‥という前にまず、センスを活かせる技の表現力を基本的に習得している」ってことはたいせつです。できるだけ「これさえ丸覚えしてこう書けば正解」みたいな紋切り型にならないように出題して、"一定レベル以上の基礎的な技能があるのは確かだ"と認定できればいいのではないかと思います。いかがでしょうか。(教本や検定をの企画を立案検討する際、「もともと紋切り型に浸透させるつもりなどなかったのに、融通の利かない紋切り型にしか伝承できない人や、紋切り型を徹底すると妙に満悦してクセになる人や、もっといいアイディアがわいてくるはずのプロセスで『とにかく指示されたままに忠実に』とか『じゃあ、そういうことで』としか対応できなくて意図しない紋切り型を促してしまう人へ、どうやって紋切り型になるのを防ぐよう対策するか」ということも、併せて考えるほうがより好ましい。とくに実技は、「これ以外は一律に間違い」といった単純な判断はしかねる出題のほうが優れた出題で、それだけに「受験者もよく考えて曲を作り提出したが、審査員側もよく考えて出題した。審査する際にも勉強になったし、次の出題や実技能力の測り方ではこうしてみてはどうか‥との検討事項も把握できた」と思えるような仕方が好ましく、「完璧なほどの型が出来上がったら、あとはひたすらその通りにやるだけ」→「よく考えたのは受験者と出題者だけで、審査員は『とにかくこれは〇、これは×、これで計何点で、何点以上なら合格。なぜか‥なんて理由は問わないでくれ、知らないんだから』といった単純作業で考えることがない」ような仕方により結果的に「じゃあ、そういうことで」→「紋切り型や面倒くさがりやの姿勢を蔓延させる」ような検定なら‥それを想定外といわず、対策を検討しておくことも必要です。上記では、その対策の一例として「審査員がそれぞれの仕事経験での異なる角度からコメントでき、出題を考える際も審査の会議をおこなう際も『なるほど、そうか、そっち方面ではそういう価値観もニーズもあるんだね』と各人互いに発見があって会話が盛り上がる」という案を示しました。どのような才能を持つ人がどの程度必要とされていて、その必要な人をどのような出題や審査方法によって「才能アリ」と見抜いて発掘し、変化する時代状況や業界事情を鑑みながら「次に出題する際にはどのような才能を求めてどう出題するか」と考えては労力をそそぐ姿勢を持ち続けることはたいせつです。「クリエイティヴな意欲と姿勢を抑えるように作用してしまう検定は、作曲や作詞の基礎技能検定としてはあまり好ましいものではない」「出来上がった楽曲を"すでに完成した作品"として、それを練習して演奏する演奏者の音楽への取り組み姿勢や手順とは、必ずしも優先事項が同じではない」と思いましょう)。 実際、作曲編曲をしている人たちは、(上記の甲乙丙類それぞれにおいて)上記に示した程度の基礎技能はあたりまえに習得していて難しいとは思っていない人たちのほうが大半です。なお、なぜ"甲乙丙"類なんていう古めかしい分類名称で示したか‥というと、「音楽理論や作曲技法の説明には、数字やA~G(ドイツ音名ではHまで)のアルファベットをかなり多用するので、それとごちゃ混ぜにならない分類名称にしておこう」というのがその理由です。(日本語って「ひらがな/カタカナ/漢字/アルファベット/数字/漢数字/ローマ数字/‥など、どれもみんなが知ってて通用するし、どの表記で記そうかな」と考えやすいのは抜群の特長です)。 (上記は2018年4月12~18日追記)。 ※ 上記で提唱した検定は、2010年前後に一時ブームになった"ビジネス検定"や"教養検定"とはちょっと趣旨が異なります。「著作者として作曲する‥というなら、一応はそれ相応の基礎知識と基礎技能は持っている」との客観的評価のある検定に合格していることによって、スムーズになるであろうことは、たとえば次のようなことです。「いざ作曲や作詞をしようとしたら『その能力はどれほどのものなのか』といった試されの試練がいつまでも続いて、こまごまと音楽の専門用語まで含めて逐一説明しなければ理解してもらいにくい」とか、「『どういう内容のカリキュラムをどこまでは習得済みだから、次のステップアップにはこれとこれを習得すればいい』といった習得段階のケジメや習得度の照準が理解浸透されていないことへの対策」とか、「個々人の習得度がわかりにくいために『作曲を依頼する側や、新人抜擢する側が、ふさわしい作曲者の候補をリストアップするのが容易でなく煩雑になる』といったことへの対策」とか、「『作曲家側にとっては、基本的には演奏家の人たちはお客様』と思って『演奏することに関しては演奏家のほうが上手くてあたりまえ』と演奏家の方々の立場を尊重して立てようとすると、なぜか『あまり作曲については本格的に勉強もしたことがないのに、自分だって作曲ぐらいできると思いたがる人たちが席捲』してきたり、『それなら作曲技法について教えるから、作曲する立場としてのアイデンティティを確立しますか』と向き合おうとすると『作曲したら著作者だなんて、そんな大それた者だと称していいのか』と著作者になれることをうれしく思うどころかおそれ多い感覚をいだいたり、その感覚が『自分は演奏活動よりも作曲するのがメイン』という人たちへまで伝播して『作曲の実力はあるのに、著作者と称さなくてもいいような簡単な請負い仕事しかしたがらない作曲系若手が多くなる』みたいな状態への対処」とか、「『作曲する側は、演奏者ばかりが育ち増えればいいと思っているわけではなく、作曲者を育て増やすことを考えたい』との気持ちを(多数派の演奏者側のもろもろの事情ばかりに翻弄されずに)貫けることだって必要で、作曲する人が成長しやすい状態への推進はニーズがある」とか、「『そもそも作曲や作詞の仕方などほとんど知らず勉強もしたことがないのに、作曲者や作詞者に成り代われば儲かるんじゃないか‥と奇妙な勘違いギャンブラーが思惑絡みで欲をかく』のを防ぐ」とか、そうした実際的な状態に対処できる業界的フィールドを整える‥との趣旨でお考えください。「検定を実施すれば、検定そのものの受験料を集めて儲かるから、検定をおこなおう」みたいな考え方が営業トーク的に強調されては、本来の趣旨から主軸がズレています(営業トークの段階で企画の意図がちゃんと伝わらず儲け話へと主軸がズレる‥というのはしばしばあることで、そうしたマネジメントの現場で仕事をすることが多い人は「人間の欲望(とくに金銭欲)は限りないものだ」などという人生観を持ったりしがちですが、"極端な格差社会の是正と業界健全化"のためには、「音楽追求の欲求は二の次で、金銭には限りない欲求がある」みたいな価値観にむやみに群がられるような営業トーク展開にしないよう、留意しておくほうがいいです)。が、「実費のみ集めて、検定を実施すればするほど赤字状態になるため、助成金に頼らざるを得ない」みたいな取り組み方とは違って営利は上がる運営の仕方が望まれます。きちんとした検定なら、「"大学入試の受験料より少々高い"程度の受験料でも、受ければ自分にとってはメリットもあるし受けておこう」と考える人たちがいて、運営する側もやたら経費削減して利益率を上げようなどとしなくてもちゃんとした審査員をそろえて営んでいけるのではないか、と思われます。(2018年5月18~21日追記)。 もし、上記の『作曲基礎技能検定』のような検定を、行政の文化事業団体や、音大芸大専門学校の連携による協議会や、音楽業界の公的団体やヤマハ様など音楽産業を率いる事業者の協会/協議会/音楽事業者組合など、音楽業界や社会的産業構造について現状及び将来的方向性を示すべき立場にある団体が、実際におこなう場合には、渡利辺祥楽舎も、検定受験を希望するレッスン生・受講者へはオススメしようと思っています。(以前から付記しましたように弊舎は、この検定の提案により「家元的な立場になりたがる」みたいな意向で述べているわけではありませんので、誤解なさらないよう願います((もしも、弊舎が家元にでもなりたがったら、「自分/当家のほうがよほど家元にふさわしい。明治時代の文明開化の際に和洋の音楽の発展に道筋をつけたのは、当家のご先祖様だ/当家は検校として明治時代以前から音楽に勤しみ歴史を継いできた」などという人たちがあちこちにいるのですから、弊舎はやたらに試練やバッシングを受けたくはないのです。民主主義社会で「学校で学んだ知識や学術研究や普及啓蒙の考え方とともに、音楽に励んでいます」という立ち位置のほうが、居心地がいいと思っています))。画一的な平準化というのはあまり好きでもない弊舎は、検定をするのは音楽業界の活性化と曲作りの技量向上や向学心の底上げにおいて好ましいメリットもある反面、一律の基準で能力を測ろうとすることにより個性的で飛躍的に突出した創意の表現力を軽視したり抑えたりすれば、陳腐化するデメリットがある‥とも思っているのです。が、「幸先のよさそうなことならやってみよう」といった世情的関心は、多数派や一般的ポピュラリティの気持ちになじみやすく、教育面での業態的健全性に安心感があるのは好まれ、個性的で飛躍的に突出した表現力を発揮することに比べればやっかみの対象にもなりにくい、といった属性が、昨今の時代的ムードと妙にマッチする‥それが業界底上げ的な"検定"ではあります。作曲する人たちが「まずスタートラインに立てるように基礎力を磨き、キャリアアップして実績を上げればギャラも高くなり、もちろん利益を上げていい、利益が上がるように頑張るのはあたりまえ」といった考えを意気揚々と持てるようにしていくには、底抜け底なしではなく、底上げしてステップアップできるようにする必要があります。((音楽は料理と同じではないし味覚と聴覚は同じではない‥との前提であえてたとえ話をするなら、『素晴らしい腕前のシェフや板前が、素人と一線を画し、仕事人としてユニークなアイディアで味覚と美観を追求しながらその腕を活かせる状況にあるのは、世間で一応の"調理師の資格"という一線があるゆえだ。調理師であろうとなかろうとほとんどは簡単な料理ぐらいは作るし、作っちゃいけないなんてことはない。シェフや板前にとっては、"やっと調理師の資格を取得した"というのは基本を習得してスタートラインに立った駆け出しの料理人‥といった程度のことだろう。けど、もしも"調理師の資格"といった一線が存在しない状態で、最も大量に売れて売り上げの高い人こそがトップの調理人として業績を誇れてプロデュースの関心もそのような方向へばかり向く‥との状態であるなら、どうなんだろう』と考えてみればわかることもあるでしょう))。で、弊舎としては、とにかく作曲関係の曲作りや教育をなんとか仕事しやすくしようと願っていて、できるだけバランス感覚のいい視座で提案提唱しながら「自分もそうした仕事のしやすさへの必要性は感じている‥という先生方、前向きな議論しませんか」との気持ちで述べている‥といった姿勢です。なお、検定受験用の公式教本教材が刊行される場合は、弊舎でもその公式教本教材に準拠して指導するつもりです。その際、弊舎では、その公式教本教材に準拠した内容の併用副教材を執筆することはあり得ます((基本的な本筋がきちっとシンプルに書かれた教科書や、傾向と対策が立てやすいけれども出題頻度の高い事柄に偏りがちな出題例と過去問集に対して、さまざまな特長で工夫された多様な学習参考書があるように。独学独習では学べないことをちゃんと学びたくて来るレッスン生・受講者にひとつひとつ説明しながら学習を促すのに役立つ副教材を想定。そもそも本気で曲を作りたい人たちは「『教科書的な公式教本+検定出題頻度の高い例題集』だけを勉強して、検定に合格したら目的達成」なんてところに到達目標を置くわけではなくて、「検定合格はちょっとした通過点」という程度に思うものなので、「検定にはそんなに出題されないけど、曲作りするならこんな時代様式もこんなネタも知っておきたいよね」といった豊富で多様な内容を学びたい‥ですよね))。「気付いたら、公式教材教本が刊行されたとたんにその教材教本のみで一本化の統制が図られ、他の人は著作する権利をあきらめて従属的に利用させてもらうだけ‥みたいな状態になっては、共に協力して音楽産業活性化と繁栄のために一貫して頑張って来たのが"ご意見の吸い上げ"扱いで、自分の頑張りはいったい何だったのか」と憤りながらその恩恵にあやかれないような立ち位置に置かれたくはありません。公式教材教本を作成なさる側にも著作権はあり、検定を受けようとする人たちの側にも「作曲に関して一応の技量レベル以上であるという客観的評価のある確信と著作権への認識を持ちたい」との意思はあるだけでなく、教える教師講師にも「作曲したり作詞したり文章の原稿執筆をするならば、その著作物に関して著作権はある」のです。筆者は、1980年代後半~1990年代には原稿料400字に付きおおむね6,000円程度((媒体により2,000~9,000円程度))ランクの執筆者として仕事をしていましたので、「公式教本教材が刊行されるなら、その教本教材を全く利用させてもらうだけで事業を営み、自らは執筆もせず作曲もしない」といった立場にはなり得ません。作曲したり、作曲関係の副教材を執筆したり、曲作りを学びたい受講者へレッスンやセミナーをおこなうのは、分不相応ではなく、あたりまえの権利であると思っています)。上記のような検定がおこなわれる際には、弊舎へもぜひお知らせくださいますようお願い致します。(2018年5月30日~6月15日)。 ※ 公式教材教本や副教材の内容についての留意事項: 学習者の人たちが、教材に記されている音楽理論や作曲技法について、奇妙なほど過信してしまうのを避けるよう配慮することも必要です。「習い覚えた音楽理論は永遠に不朽不変の理論だ」と過信しがちな際の素朴な連想として、「グレゴリオ暦とグレゴリオ聖歌~12星座の星占い~1オクターブは12音だよね。音楽は宇宙だ/あるいは、音楽は宇宙からのおくりものだ」との想いはよくある連想です。西欧12~16世紀頃のルネサンス期、星と宇宙と音楽への探求心をいだく科学者や発明家は多く、紀元前の古代ギリシャの音響学から楽器の発明に至る経脈にもなっているようですから、その想いはあながち的はずれではないのです。が、音楽理論はその素朴な想いだけで成り立っているわけでもありません。「音楽を勉強し研究していけば、やがて宇宙からのメッセージを音楽として受け取れる、受け取った音楽的ヒラメキを楽曲や音楽的コラムた学術論文として整え作品として著作できる。‥人間の情緒的な浄化などということが究極の目標ではなくて、『空を見上げ宇宙を眺めるときのすがすがしい気持ちでスタートして、日頃の勉強や練習により音楽的ヒラメキを受け取り、音楽表現に励もう』と志向する、それは快く知的で楽しい」との想いをいだいてみましょう。[理想を想い描いて頑張って、それが世俗一般においては"孤高"と思われるような状況になった際、"庶民性に媚びるかのように価値の基準を相当俗っぽいラインに置こうとする"‥ことでしか対応の選択肢がないわけではありません。「理想を放棄して世俗の好みに媚び、懐の深い優しさで不勉強な姿勢をも肯定しながら"みんなでぞろぞろ"的な行き先にポピュリズムを勢いづけるカリスマか、憂さ晴らしの娯楽の登場を期待する(そうした魅力を昔の人たちは"魔性の惹きつける魅力"と認識したようだ)」よりは、良識的バランス感覚のいい知性派として「理想を追求しながら勉強好き」であるほうがよほどマシじゃないか‥と気付くまでに、1970年代からかれこれ30年ほどかかったなんて、ちょっとどうかしてたんだと思います。そもそも「理想を超越して宇宙からのメッセージに感応し、おおらかに将来を展望して大いに発展を望む」のは、俗っぽすぎない文化においてのほうがふさわしい、‥そういえばそうだ、ってわかっていたのに、過去"失われた30年"の間はコンディションがおかしかったのかもしれません。たぶん、音楽の神様は「やたらに希望的観測はでっかくて、実現するには無理難題が多く、実現できる確率がかなり少ない」ということはあまりお好きではない‥「それぞれの人たちが適性ある個性で希望をいだいて、得意な表現力を活かし自由に活動すればいい‥というからには、あまり無理難題ではなくちゃんと頑張ればちゃんと実現できそうな、趣旨目的や企画実行力に適った希望をいだいて努力するのがいい」ということのほうがお好きなんだと思います。陳腐で退屈な惰性でやり過ごすよりも、素晴らしい感嘆とともに活性化をめざすのは好まれます。しかも、音楽の神様および神様を慕う魂は「神様なんかいない」とは絶対に言われたくないので、宇宙を想う際に無神論や無目的性で各々バラバラになるわけでもなく集合化する‥というのはあきらかであるように思われます。音楽家の人たちの側が謙虚な気持ちをたいせつにしようとして「お客様は神様だ」みたいなことを言っても、その気持ちを勘違いする人々がいるなら、「音楽家もお客様もみな人間だ。その音楽習熟度には差があって、みな人間だからといってみな同じ習熟度というわけではない」と言うほうがマシではないでしょうか)。2018年12月20日追記]。今後は欧米だけでなく、未だ音楽教材が国際的に論文や教材が出ていないようなアフリカなどの地域も含めて新たな音楽理論や作曲技法が出てくることも予想されるだけに、ある程度の客観的視座を持ってあれもこれもと理解できるようにするためには、「その技法は何世紀~何世紀ごろにかけて、西欧のどこの地域で尊ばれ用いられた技法で、どのような時代様式や個人様式(≒個々の作曲家の作風や好きで多用された形式や技法や編成)の主軸になっている」ということを、(いつから伝承されてきたのか不明‥という事柄は多いでしょうが、わかっていて定説がある事柄については)できるだけ、付記するのが好ましいです。‥というのも、余談になりますが、かれこれ30年近く前の1990年代前半、筆者は或る教材編集出版社から「一般向けに音楽史解説の平易な教材を作成するにあたって、大学教授陣に原稿執筆依頼したので、その原稿内容をチェックしてほしい」と頼まれたことがあって、届けられた原稿を見たら「昔チェンバロは‥→『昔』ではなくて、何世紀頃か記す必要はあります」「ベートーヴェンの曲はビールを飲みながら聴くのが一番だ‥→それは個人的感想なので、よもやま話のエッセイとしてちょっと載せるのはいいでしょうが、教材の本文の説明文として書くことではありません」「このような音楽はワールドミュージックという音楽で‥→未だ『ワールドミュージック』というジャンルが確立しているかどうか曖昧未定な時期に、それでもそう記したいならば『世界各地の民族音楽を"ワールドワイドな音楽"として仮におおざっぱに"ワールドミュージック"と総称するならば、そうした音楽は‥』などといった述べかたを検討してはいかがでしょうか」などと指摘することになってしまった経験があるので、公式教材教本を執筆なさる方はぜひ気を付けてちゃんとしたテキストに仕上げていただきたいです。(2018年11月9日)。 筆者は1990年代半ば、勤務先の東放学園専門学校で知り合ったご年配の先生が、前職は種子島宇宙センターで仕事をしていた方だと知って、「現代の天文学は、中世~ルネサンス~近世の頃の12星座の天文学を否定した先に成り立ってきたのでしょうか」と質問したことがあります。その際に教えていただいたのは、「否定したわけではない。が、天文学と心理学を分かちがたく反映されるのだろうと認識していた中世の頃とは違って、天文学は天文学、心理学は心理学として研究することで、学問分野はごちゃ混ぜにされずそれぞれに発展することが可能になった」ということです。そうしたことから言えば、「他の学問分野とごちゃ混ぜにされない、音楽学研究・音響学研究」ということを、もっとたいせつに考えるべき時期が今の時代なのかもしれません。 とりあえず、この文章を読んで「宇宙からのメッセージだって?」と妙な気分になった人へは、世界遺産・高野山へお参りして「ここは地球だ!金星は、木星は、どこにある。アメリカはあっち、イタリアはあっち、ブラジルはそのずっと向こうのあちらにある」と思いを馳せることをオススメします。「婚活支援する」といえば「いかがわしいデートクラブではないのか」と連想し、「宇宙からのメッセージとヒラメキ」の話をすれば「奇妙な新興宗教ではないのか」と連想する、‥その連想は間違っています。「そうではありません」とはっきり言いましょう。 ※ 作曲基礎技能検定の実技で出題されるモチーフが、事前に出題もれしない方法:①検定実施当日の2時間前に、出題者たちが会議室に集まって、それぞれ音名を1つずつ~3つずつ程度出し合い、その場で合作して出題モチーフを3つ程度作り、楽譜に書く。②検定受験者が着席して検定開始を待つ間の30分間に、出題モチーフが検定会場に配信され着信。③各検定会場に確実に出題モチーフの楽譜が到着したことを確認した後、出題者たちは会議室を退室。④各検定会場では、個々の検定受験者に本人確認の照合をして楽譜を書くための提出用や下書き用の五線紙を配布(これだけでも20分程度はかかる)した後、刷り上がった出題モチーフの楽譜が配られる。(「あらかじめ所定の筆記科目を含め3科目以上に合格している人が、実技検定を受けられる/実技検定を受けたい希望者が多ければ、実施回数を増やす」ということにすれば、これぐらいのていねいな対応でも検定実施できる程度の人数規模で可能ではないか)。丙類や作詞基礎技能検定の出題歌詞も、(近年のポップス相応の長い歌詞を想定し)「Aメロ/Bメロ/サビ/大サビ」の案を各出題者たちが持ち寄って、検定当日朝に組み替えたり書き加えたりして"出来立てほやほや"の合作の出題を検定会場へ配信すれば、事前の出題もれはせずに実施可能ではないか、と思われます。(4月23日追記)。 検定の実技が5~8時間に及ぶ場合、途中で休憩時間をとることも必要と思われますが、前半を「モチーフ展開を考えておおまかに曲の構成を下書きし、各パートの楽器配分を割り付ける」といった下書きの時間とし、休憩をはさんで後半は「清書して楽曲の楽譜を仕上げる/あるいはDTMに入力して仕上げる」というようにすれば、休憩時間をとりやすいかもしれません。大学入試では、3時間程度なら受験生たちは途中で1回も離席することなくぶっ続けで1曲書き上げます(5時間でも、大半の受験生たちは1回も離席せず、残り1時間程度になると早々に1曲書き上げて退室を申し出る人も多少いるといった状態です)。中高年の大人も受けやすい検定にするには、短時間の休憩を2時間毎にはさむような配慮をするほうがいいかもしれません。(2018年6月14日追記)。 ●一流の音楽家として栄光を得た人は、「音楽やるなら、精神的に安定した気持ちで快く、練習や勉強の努力を惜しまず頑張り続けることだ。自分の得た栄光もそうした努力によるものだ。『各人それぞれ個性的な表現力を持ちながら、協調して力を合わせれば、創造的に楽しく音楽活動できる』‥そういうミュージシャンシップに心あたためて、快活な魂の喜びやパワーを元気にしてほしい」との社会的メッセージを発していただきたい。 (一流の音楽家として栄光を得た人が、むしろこれとは逆のことさえ言う状況に、過去半世紀、どれほどの音楽業界人や音楽教育者たちが苦労させられてきたか。音大芸大や音楽専門学校や街の音楽教室では、「練習や勉強の努力を惜しまず、少しずつでも上手になっていこう」と奨励している。無頓着に「楽譜なんか読めなくたって、練習なんかしなくたって、チョイチョイとできちゃうもんね。オレって天才。コツコツ努力しました‥なんてカッコわるいじゃん」とか「上手いか下手かは関係ない」とか言うのは慎んでいただきたい。まに受けた人たちが、体験受講に来て「楽譜なんか読めなくたって、作曲はできるものなんでしょ。編曲家は音楽のことをたくさん勉強しなきゃ簡単になれるもんじゃないけど、作曲家はあまり音楽の勉強をしなくたってなれるものなんでしょ」などと無頓着なことを言う混乱は、迷惑である。一流の人は、(人間なんだから「非の打ちどころがない人格者であってほしい」とまではいわないけど)社会的影響力が多大であることも考慮して、一流にふさわしいことを言っていただきたい)。 (この項、2018年3月末~4月上旬追記)。 ● 上記のような"ミュージシャンシップ"においては、「各人が適性ある能力を熟達レベルに応じて発揮して、やりがいを感じられる」「適材適所の起用登用でナットクでき、処遇に(充分大満足とはいかなくても)ある程度満足できる」といったことが充足されてこそ、協調して力を合わせなかよくやっていける‥との面に無頓着でないこともたいせつだ。 とくに、21世紀になって以後の十数年間を鑑みるに、国事の行事の式典やお祭りごとの国民的テーマソングとして新作楽曲が起用される場合、「音大/芸大/音楽専門学校で本格的に音楽を学んだことがなくたって、威勢よくバンドやって大志をいだけば、音楽の道で成功できるもんさ。それで、作曲家としても一流、歌手としても一流のラッキーな有名音楽家になって、お金だけじゃなく功績や名誉ある栄光も得られる。たいした作曲の腕前じゃなくたって、必要なら作編曲の腕前が確かな達人に編曲してもらえば、オーケストラ編成の曲だって仕上がる。音大/芸大/専門学校で長年演奏修業した人もコンクール入賞や留学経験ある人も、"あまり一流でもない歌手・演奏家・ミュージシャン"の立ち位置で大人しく従ってくれて、ありがとう、ごくろうさま」みたいなあり様に、国の"お墨付き"が与えられるような抜擢起用はいかがなものか。これは、学閥がどうの‥とか、学歴偏重がどうの‥とかいう問題ではなくて、「音楽家になろうとする人は、そもそも何年間もにわたって音楽の専門的能力や学究をきわめる必要があるのか」‥との"専門職の職業威信"の根本にかかわる問題である。 2018年以後も、国家的・国際的に大きな行事やお祭りごとの催事は予定されているだけに、「稀少で貴重な機会だからボランティア参加でスタッフの手助けをできるだけでもうれしい」との気持ちの音楽ファンの一般市民だけでなく、「国内国外通じて"日本を代表する音楽家"にふさわしいのは誰か?"流行と消費には機敏なサブカルチャーの代表曲"という次元を超えて、長年にわたり継がれていく名曲にふさわしいのはどのような曲?」と抜擢起用へ関心を持っている音楽関係者は大勢いる。その大仕事、そんなに容易なものじゃない、高いギャラも名誉も社会的な地位も得てあたりまえだ‥と多くの人々がナットクできるとなおいいね。 (この項、2018年3月末~4月上旬追記)。 ●作曲家/編曲家は、「音楽キーボードに自動伴奏機能が付いている」というのは「ギリギリの容認‥初心者に楽しく励みになるなら、自動伴奏機能が付いているのも仕方ない/自動伴奏機能がなければ伴奏付けできない程度の習得レベルでは、作曲者や編曲者と称するにはまだまだ勉強が足りない/自動伴奏機能のほうがよほど上手く伴奏付けできる‥といった編曲技量の人へ、編曲してくれと依頼する人は少ない」といった認識であり、「世間で広く販売されている音楽キーボードやデジタル楽器の多くに自動伴奏機能が付いているので、やむを得ず容認はしているが、曲作りするなら自動伴奏機能を使わずに作編曲できるようめざすのがあたりまえである」というのが、"一定レベル以上の習得度のめやす"ではある。 ● MIDI/DTMアプリのマニュアルやMIDI検定の教本には「各音のひとつひとつ(ピッチやデュレーションやベロシティのある入力音符)や、効果設定(エクスプレッションやパニングやリバーブなど)のリストに並ぶひとつひとつを"イベント"という」と記載されているものがあります。が、普通の社会通念では"イベント"とは、コンサートなどステージのある催しや、参加型のパーティやレクチャーやサイン会やグッズ即売会、パレード、展示会、見本市、博覧会、国際会議のレセプション、遊園地やショッピングセンターなどでのアトラクションや催し物会場でおこなわれるバーゲンや、物産展や観光PR催事などを「イベント」といいます。大人たちにとってはあまりにあたりまえにわかっていることなので、DTMの音符を"イベント"なんて思う人はそんなにはいないでしょうが、とくに子供や若者に教える場合には「マニュアルやMIDI検定の教本に記されていることだから音楽用語として覚えねば‥と思い込んではいけない。MIDI検定の教本が、社会通念に適応しにくいことを記載して間違っているのです」、「ライブコンサートはイベントですが、DTMアプリの入力データはイベントではありません。間違った概念で覚えたりしないように」と言って、勘違いにはまったりしないよう注意を促す必要があります。マニュアルや教本は「とにかくそう覚えておけば間違いない」と思って読む人が多いですから、「児童/生徒/学生/レッスン生が、そう覚えていい。そう教えていい」という内容ではないことは、修正および改訂が必要と思われます。 (新しく出てきた学説というのは、試論含みで「そのまま教えて社会通念上さしつかえがないか。歴史的経脈から鑑みて妥当か」といったことへの検証が必要だったりします。そのため、「従来ではこれは定説になっている。この部分は試論だから、十年後や二十年後には他の要素も含めて定説は更新改訂されているかもしれない。未だ定説といえるほどの説がない新説は、活発に論議されてからだんだん定説が樹立されてくるものなので、まず論議しやすいお題として挙げて様々な角度から『こうも言えるんじゃないか/こういう事例の場合はこう言えそうだ』『何世紀か前にその類型のような説きかたをした学者がいるが、その時代は社会状況がこうだったため、定説はこう落ち着いた。今の時代では、その社会状況がこう異なる』などを提示し合って話し合ってみる」ということが必要です。日本の音楽用語は明治時代の文明開化以後150年ほど経ちますが、「日本語に翻訳された音楽用語の、言いやすくて、聞いて他の用語と誤解されないような音楽用語にするための検証」「音響用語との兼ね合いでちゃんと覚えて理解してさしつかえない音楽用語にするための検証」が、未だそれほど充分ではないのです。「未だ定説がはっきりしていないなら、定説が定まってからでないとマニュアルも教本も書けない」と思っていては、定説どころか試論や仮説の検証も進まないので、とりあえずマニュアルや教本を制作しようということにはなると思いますが、「やったもん勝ちで、とにかくマニュアル書けばそれで通用するってもんだ」なんて簡単に考えられるものではありません。「ライターに頼めばさっさと書き上げて、スポンサーが付けば制作予算も用立てられてさっさと出版」なんてペースで学術書や教本は出せるものではありませんし、教育指導の現場では「その教本で教えてみたら、生徒に『(上記の、音符はイベントではない‥みたいに)教本にはこう記されているけど、そう覚え込んではいけない』と先生が言い訳したり不都合や不具合を補ったりせねばならないような問題個所はないか‥の指摘を挙げて、検証していく」ことのほうが、優先して必要なことだと思われます。小中学校の義務教育レベルでは「楽譜の読み書きリテラシーとすでに定説になっている楽典を、ざっと基礎教養的に覚えるように教えればいい」でしょうが、高等教育レベル以上では「未だ定説というには20世紀以後に現れ年月の浅い、ジャズコードの知識、音響機材装置の発明やエレキ楽器類の登場に伴いロックなど新たな音楽様式が出現した話や、明治大正以来の西洋音楽の普及やポピュラー音楽の変遷などについても、ひととおりの知識として学習しておく」ということが必要になり、「これは定説だからこのとおりに覚えておけばいい」といった学習指導の仕方だけではない対応が求められます。生徒や教師へのアンケート調査が評価査定に影響して人気投票っぽくなり、教師たちは不都合や不具合があってもその報告を(本部へ)上げようとするとクレームとごちゃ混ぜ扱いされがちなため言い出しにくいムードで、検証しようにも現場から問題指摘のネタが出て来ず、そのままマニュアルや教本がまかり通って修正も改訂もされない、‥みたいな状態は好ましくないと思われます。が、その改善策を可能にするには「(義務教育を超えたレベルの教育では)各教師は学術的な研究経験があって、『正論か?反論か?極論か?/賛成派?反対派?忠誠心で何も言わない派?』ではなく、『これは定説として教えていいか?これは仮説と試論だがおもしろい発見はある/これは歴史的には定説とされてきたが20世紀後半以後いくつかの説に分かれて論議は続いている‥と言い添えて教えるか?』といった幅広い見地とアングルで解説できることがたいせつ」と思われます。喜べ!必要な仕事はいっぱいある。その仕事がやたら無料の奉仕活動ばかりのフィールドで展開して、音楽産業/音楽業界がジリ貧状態になったりしませんように)。 ●作曲する人たち/編曲する人たち/歌う人たち/楽器演奏する人たちが、DTMアプリを用いようとする場合、大半は「DTM を扱えるようになってスキルアップしたら、先々は音響技術を駆使できるレコーディングエンジニアやシンセサイザーの音響設計開発エンジニアになりたい‥と思っているわけではない」のが普通である。ゆえに「(音響技術者とは)職種や仕事領域は異なる/習得すべき専門基礎知識や熟練するほうがいい職能スキルは異なる/音楽理論や作曲技法は、音響工学に収れんされ尽くすようなものではないし、過度に音響工学に収れんしないほうがいい‥と思うエンジニアの人たちも少なからずいるはず」と思っているほうが、仕事の分担はスムーズ。(志向を自覚すると、「DTMの多様な機能において、自分が扱いたい/扱う必要があるのはあれとこれ」ということがはっきりし、「DTMの多様な機能に対し、あれもこれも興味があってとにかくすべてさわってみたい」といった好奇心は薄れるものです)。 作曲編曲する側としては、「DTMアプリの開発者が、アプリの機能に作曲技法を取り込もうとしてガツガツしたり、その取り込んだ作曲技法を自動で作曲や伴奏付けする機能にして『人間は曲作りする際に作曲技法を学ぶ必要もないし、機械が自動的に曲を作ってくれる』みたいなアプリを開発しようと志向する」ようなDTMアプリは用いたくない。著作権法は各国によって異なるものだから、日本で作曲しようとすれば「(グローバルな時代であるだけにDTMアプリが日本産か外国産かを問わずとも)少なくともそのDTMアプリを用いて日本国内で作曲した場合には、日本の著作権法が適用される」ということが確実なDTMアプリのほうが安心感があるし、「日本産のDTMアプリであれば、少なくとも日本の音楽産業の創造的発展や国益に適うような志向で、質のいい楽曲作りが奨励されるのではないか」との信頼を望む気持ちもある。(長期的に考え得る国益とは、そういうことでしょう。日本に限らずどの国においても、国益とはそういうものだと思うけど。グローバリゼーションというのは、あえて簡単な言いかたをすると「各民族の歴史や各国の歴史を"敵対と侵略と恨みつらみ"が絡みがちな事実として捉えるよりも、近代化へ至るまでにたどってきた"よくある発展途上の変遷のパターン"みたいに抽象化して捉えることによって、過去の未熟さゆえの軋轢多き事実を輪廻するのではなく、20世紀までには実現できなかったもっと好ましい関係を築けるよう推進していこう」との志向があってこそだと思います((たとえて言うなら「上司の〇〇さんと同僚の〇〇さんとの間で出世競争やら意見の対立があって‥」などといった過去の事実を根に持って輪廻するような未来はろくなもんじゃない、それよりも「上司と同僚の間にありがちな意見のすれ違いのよくあるパターン」を抽象化して理解することにより、次はそういういさかいを繰り返さずもっと上手に好ましい人間関係にしていこう‥みたいな。個々の人間関係だけじゃなく、歴史的変遷だって、抽象化して理解することで、好ましくないことを輪廻せずに乗り越えようとする志向はあるわけです))。で、そのグローバリゼーションの推進に関心を持ってみたら、あれあれ、著作権法というのはどこの国も同じような法律というわけではなく、日本には日本なりの著作権法があって権利が守られるようだ‥と気づけば、日本の法律に基づくか少なくとも日本の法律と相性のいいソフト/アプリを選びたい、とは思う((「日本の著作権法と相性のいいソフト/アプリ」という観点よりも、「日本の昭和時代~平成時代のエンタメの実情と相性のいいソフト/アプリ」という方向へ展開されたら、「DTMアプリは歌謡ポップスのカラオケ制作やアイドルアニメのボカロとして役立つ」という方面へ比重が偏ってしまったのだろう。それはすでに成されたことなのだ、との認識も持ちながら、やはり「今後も改定されていくであろう日本の著作権法と相性のいい将来的発展を期待できるソフト/アプリを」と望みたい。少なくとも「アイドル歌手やタレントをめざす若者たちが活躍可能な音楽業界環境があれば、大成功したらレコード産業だけでなく、広く経済波及効果はある」ということがわかったなら、「作曲家をめざしてその能力も充分にある人たちが、活躍困難な音楽業界環境で凡庸かつ利己的な歌謡作曲家の意のままに編曲の仕事をせざるを得ず、著作権を持って出来のいい新作楽曲を次々出していく意欲が抑えられたのでは、可能な将来的発展や経済波及効果がフイになるのは可能性の損失ではないのか。前向きに素晴らしい発展のある選択をしようではないか」‥と、JASRACや作曲家の団体や作曲科のある音大/芸大/専門学校の方々はそうした立場に立って強気の主張をしていただきたいと願っていました))。そう思っても国産のDTMアプリを作れるプログラマーがいない国も少なくないかもしれないけれど、日本には「それなら国産DTMアプリ、ありますよ」と言ってくれるプログラマーも企業も存在する状態であることを、ありがたいと思って感謝しましょう)。楽曲制作用DTMアプリケーションソフトの開発者はその開発したアプリケーションソフトの著作権を持てばいいし、作曲者は作った楽曲の著作権を持てばいい、習得している技能も作り上げるものも異なるんだからすっきりしてるでしょう。「そのDTMアプリを用いて作曲したら、仕上げた楽曲は配信してあげますよ。その楽曲が人気で有料配信可能な出来なら、利益が上がったらDTMアプリ開発者側や配信メディア会社と共々に利益を分け合いましょうね」との方針のDTMアプリを用いたい。 ※ DTMアプリを用いて作った曲ならではの、配信の仕方を提案しておこう。たとえば、「フルート2、クラリネット1、チェロまたはファゴット1、ベースギター1、ドラムス1」の6つのパートで演奏する曲を作ったとする。全6パートのDTM音色試聴版録音を販売するのは手頃な料金で、ある程度の小節を部分的に無料公表した試聴版は「購入前に試し聴き」できる。メインのパートであるフルート2本は「フルートレッスンで先生と生徒が/あるいはブラスバンド部でフルートを吹く2人が/オーケストラのフルート奏者2人が」その曲を試聴して気に入って演奏することを想定(与えられた曲だから演奏するというよりは、気の合う友だち同士の意思で曲選びして好きな曲だから演奏する想定。メインをわざわざ2重奏や3重奏とするのは"ひとりカラオケ"にならないためで、比較的「いつもの仲間で演奏しよう」と思いやすい組合せ。「ギターとベース」とか「サックス3人」とかならそう思いやすいけど、「ハープとドラムス」とか「三味線とバリトンサックス」では意外性のサプライズはあるけど仲間を組む機会が少なすぎる組合せだから、少なくとも「好んで演奏してくれる三味線奏者がいるならメインは三味線で、バリトンサックスはとりあえずカラオケでもかまわない」ことにするか、「好んで演奏してくれるバリトンサックス奏者とアルトサックス奏者がいるならサックス2重奏がメインで、三味線はカラオケでもかまわない」ことにするか、一応考えてみなくちゃね。‥こういうことをいちいち記述しなくてもレッスンに来れば教えようと思ってるのに、「レッスンに行けば何か教えてもらえることなんてあるのかな」なんておぼろげに思いながらレッスンに行かない人は、レッスンに行く人よりも損してるんじゃないのかなあ)。「フルート各1パートのパート譜」または「フルート2重奏の楽譜」をダウンロード可能として販売。「メインのフルート2パートのDTM音色をミュートしたカラオケ録音」もダウンロード可能。ブラスバンド部のクラリネットを吹く友人と軽音楽部のベースを弾く友人が、一緒に演奏しようと言い出したら「クラリネットのパート譜」も「ベースのパート譜」も「フルート2とクラリネットとベースのDTM音色をミュートしたカラオケ録音」もダウンロードして購入可能。さらには、「ファゴットのソロ演奏でもメロディックな聴かせどころが多くて退屈させない曲は、なかなか少ないので探してた」という人が、「ファゴットのパート譜と、ファゴットのDTM音色のみミュートしたカラオケ録音」を購入したり、同じカラオケで練習した者同士、「そちらにフルートとクラリネットとベースを生演奏収録した録音ファイルがあるなら、こちらのファゴット生演奏収録の録音ファイルとリミックスしませんか。演奏にノリ気なドラムス奏者がいたら、全パート生演奏収録盤として編集してくれるレコーディングディレクターに、リミックス版を上手に仕上げてもらおうじゃありませんか」といった人づきあいと仕事の発展も期待し得る。(レコード制作会社/レコーディング担当者には、著作隣接権として"録音権"がある)。作曲した側としては、利益はパート譜の販売で上げる。(生演奏を収録したら人気を博してレコードや録音ファイルがよく売れる‥というのをめざすのは、演奏者側の仕事です)。‥で、そういうカタチでの試聴版録音と楽譜の販売であれば、「その曲を好きな人たちが集まって演奏すればいい、ムリして全パートの各奏者を集めそろえることに苦心しなくていい」「主旋律をたっぷり演奏できるのはヴォーカルやヴァイオリンばかりではない‥といった新作ニーズに応える」「新作オリジナル楽曲の楽譜は何万円か何十万円かの予算がないと入手しにくい‥といった金額ではなく、レッスンの発表会用や音楽部活仲間がちょっと集まって任意のミニコンサートするなどの機会にも、用立てやすい金額で各パート譜を購入できる」「演奏者側は、生演奏したら、そのミニコンサート風景やスタジオ録音風景などを撮影収録して、YouTubeなどで公表するのも自由。有料コンサートか/無料コンサートか/演奏風景録音録画を有料配信するか/無料配信するか‥などによっては、JASRACを通じて楽曲使用料を少しばかり支払うこともあるだろうけど、よろしくね」と。この提案、どうぞご検討なさってみてください。(2018年6月24~28日追記)。 「フルート奏者2人がメインでもいいけど、クラリネット奏者2人でフルート奏者1人でもいい」などと曲作りする際に編成を考えるのは、作曲者にとってはごく普通のことですが、指揮者がいる人数規模の楽団や統括プロデューサーが編成に応じて演奏者ブッキングの予算を見直すような楽団ではキャスティングにかかわることなので、作曲者のようには気軽に考えられないものです。(そのような楽団でも、各奏者はオフの日には、レッスンで生徒とデュオしたり、ランチカフェのステージや結婚披露宴の出張生演奏でアルバイトしたり、バンドに参加共演したり‥と活動は多岐にわたります)。「気の合う仲間同士で生演奏するのにちょうどいい程度の人数の重奏で、足りないパートはとりあえずカラオケで補うけど、生演奏しようという仲間が増えれば全パート生演奏も可能」との演奏ニーズにも応じられて、作曲者側は「三味線とサックスの組合せなんて稀有でほとんどニーズはないかと思ったが、意外に好んでくれる人たちがいるようだ」とか「ファゴット2本がメインの曲でも演奏しようとリクエストしてくれる人たちがいる」とかがやりがいにもなる、‥それには「全パートのスコア楽譜を渡したら、あとは演奏者各人はどう望んでるか知らない」というカタチよりも、「各パート譜を個々の演奏者に手頃な料金でばら売りして、楽器編成のリクエストにも応じられる姿勢で対応する」ほうが、新作楽曲を作る楽しみが増えると思われます。 「1人10円に満たない金額を集めるのでは、1万人聴いてくれても10万円に満たない。それを、作曲者と作詞者/あるいは演奏者メンバー複数人やスタッフも含めて分け合うのでは、おこずかい程度の分け前にしかならない。個々人が「新作3千曲作って、100曲は人気になってほしい」と望む想定では、仕事が粗雑になるしムリがある(4百曲作って2百曲‥はJ.S.バッハのペース。百曲作って10~30曲‥でも、ぼちぼちの収入に満足はできる程度の想定は可能かなあ)。演奏者が、生演奏収録の録音ファイルを聴いてくれる人々を1万人と想定する場合、楽譜の販売部数見込みはその10分の1以下、もしかすると100部程度かもしれないから、販売の単価は楽譜のほうが高くてあたりまえ。ちゃんとパート譜を購入して生演奏録音ファイルを公表する演奏者の人たちは、プロであれアマチュアであれ、無断複写ではないことがはっきりするので安心感はある。新作だから、どう公表するか‥ってのは頑張りどころ。いきなり当初から『月1千円で何万曲でも聴き放題の聞き流し』みたいな金額ライン基準のフィールドで、"一般大衆好み"を気にしてはたいして誰も印象に留めず覚えてくれないような公表の仕方をする必要はないだろう。人々の音楽的好みを"一般大衆好み"とおおまかにしか捉えられないような曲は、すでにあり余るほどどっさりあるから、むしろ「"一般大衆好み"の曲にはもの足りなくて飽きている」という人々から熱心で強い支持を得られるような作風の曲への期待が有望。"一般大衆好み"指向の曲よりは、楽譜も録音ファイルもちょっと高い、‥でもよほど裕福でないと手が届かないほど高すぎるわけではない。中間層活性化に手頃な料金。仕事にするなら、各人月収30万円の仕事にするには何曲用意してどんな活動や企画展開が可能だろうか‥と考えれば、企画会議も活発になるはず」。‥そういうことも考慮した金額ラインでお願いします。 作っているまさに仕事進行中のとき、「作るのは自分の義務だ」と思い込みすぎる心境になったなら、少し休憩する。締切り期限へのストレスとともに義務感に迫られて‥では、心楽しくアイディア豊富には仕事を進めにくい。「作るのは自分の権利だ」と思い込みすぎる心境になったら、少し休憩する。権利を振りかざす気分は、しばしば高慢で急進的になりすぎる。20代の頃は、締切り期限間近の義務感や権利への自意識に次々と迫っ突かれて走り続けるような仕事の仕方も、それはそれで「パワーもらいました」気分で充実感があった。中高年になると、快い気分と感じることが、ちょっと変わってくる。いい気持ちで楽しく仕事を進めているとき、あまり義務感とか権利の振りかざしとか、そういうことへの緊張感は感じず、マイペースが周囲の気分となじんでいる。曲作りだってそうだから、アプリを開発設計制作する技術者の人たちだってそうかもしれない、‥と思う。 ● DTMで新作楽曲を作曲する場合、「タブレットで見れるパソコン版電子楽譜があれば、もう紙印刷の楽譜は必要ないよね」と考えるのは時期尚早。実際、「DTMを用いて作曲しても、演奏者に渡すのは紙に記した楽譜」という場合は多く、「DTMで試聴盤/試聴オーディオファイルやカラオケは制作するけど、出来立てほやほやで演奏者に渡すのは、浄書済みではないラフな楽譜や手書きの楽譜」というのは多い。「紙楽譜は演奏しながらページをめくらなければならないけど、電子楽譜は巻物のように自動進行で見れる」というメリットがあっても、紙楽譜のニーズは強い。想定するなら「タブレットで電子楽譜を見れてそれを紙印刷できるのは、一般に購入しやすく演奏しやすい廉価版/(とくに『楽団員全員がタブレットを持っていて、電子楽譜を見て演奏するのを習慣としている楽団から、作曲及び楽譜購入の受注が来たような際には考えればいいこと』で、『なんとなく、未来は電子楽譜を見て演奏するのがあたりまえの時代になるのかなあ‥との想い』とをごちゃ混ぜに考えないように)」。紙の楽譜については「新作の手書き楽譜の一点物秘蔵版、プロ演奏者向きの印刷部数限定版、ジャズ演奏者へ提示用の詳細コードとアドリブ参考譜付き、ファン向けに直筆サイン入り、稀少性の高い豪華装丁版など、スペシャル版楽譜はどれもタブレットで全ページを見れて紙印刷できるというわけでもなく、制作にコストもかかるし単価はそれぞれ」と考えてさしつかえない(‥受注作曲して契約上さしつかえある場合は別として)‥さしつかえなければ、「タブレット版?/紙印刷版?、あなたはどっち?」といった選択は、作曲者側よりも、演奏者の方々やファンの方々がご自分の都合や好みで選んでくれるでしょう。(これは、かれこれ10年以上前から当『Wataribe's Garden』webページで述べてきた話に、その後「やっぱり紙楽譜は不要になったりしていない」との感想も書き加えた文章です。2019年1月11日) ●作曲家/編曲家/持ち曲を持つ演奏家や、レコード会社/楽譜出版社はもとより、曲作りする多くの人たちにとって、『市販楽譜(おもに浄書された紙印刷楽譜)をスキャナで読み取れば MIDI データに変換できるアプリケーション』や『オーディオファイルを MIDI データに変換できるアプリケーション』は、「うかつに用いれば、"他人の曲を無頓着に加工し、版権侵害と気付かず加工ファイルを所持したり配信したりする懸念がある"類のアプリケーション」と認識されている。そうした認識と自覚を持っていない世間一般の人々が、それらアプリ類を手軽に購入できる状態で店の棚に並んでいるのは、音楽産業の成長と発展を推進しようとする動きを阻むパラドックスとなっている。 (「作曲家/編曲家/持ち曲を持つ演奏家の側としては、そうしたアプリの無頓着な利用は好ましいとは思えない」という類のアプリは、安易に購入しない、安易にインストールしないほうが無難です)。 ●半世紀前とは異なり、『作曲しか手がけない作曲家』よりは『作曲も編曲も手がける作曲家』のほうが圧倒的なほど増えているのではないか。‥であれば、仕事をする際の実感として「作曲家の人と編曲家の人は(固定的に)職務上の立場が違う」との前提で議論するよりは、「作曲も編曲もできるし、曲によって作曲家の立場になることも編曲家の立場になることもある。作曲するほうが好きな人は作曲家/編曲するほうが好きな人は編曲家‥としての仕事を多く手がけたいのですよね」というほうが、各人の気持ちにすんなりなじむのではないか。 ●部活やワークショップや音楽発表会やパーティで演奏しようという曲を用意する際、「生徒がオリジナルで作ってきたメロディーに、先生が手を加えて伴奏付けやバンドアレンジしてくれて、一緒に演奏した」というのは、音楽教育や趣味の音楽愛好会のレベルではよくあることで、「その曲の作曲者/著作権を持つ人は誰にするか」と議論しても後々JASRACが市場で楽曲使用料の集金をする必要はない状態がほとんどであるため、無駄な議論はしなくていい‥といった扱いなのが従来一般的であった。(パーティでライブ演奏するだけでなく、「録音録画してネットで公表しよう」とする場合に、あらかじめ配慮しておくといいことがらについては、『ウエディングソング作ろう』の項の文中の註に記述あります)。 ●「昔の曲があれば新作はとくになくてもいい」との立場をとれば、半世紀後には"伝統邦楽/伝統洋楽"の位置付けジャンルになるのはわかりきったことで、メディアでは話題の新曲を次々に必要としている。すでに何千万曲もの既存曲があり、今後も新作の曲の登録はさらに増えていくだろう‥と予想されるだけに、総体的に質的向上を志向する人たちのなかから、実力派は登場してくるだろう。(ちなみに作曲家側は「演奏家が10人いれば、十人十色それぞれの素晴らしく個性的な演奏があっていい。十人十色でそれぞれの演奏家に個性的でが際立つ異なる楽曲を、10曲用意できればもっといい。1人が正統派の伝統を継ぐ秀逸な演奏を得意とするなら、あとの9人は新作を演奏しようじゃないか」ぐらいの感覚ではある)。 リスナーのリクエストに応じて演奏しようとすれば、旧作ばかりになる。なぜならリスナーの人々は、「未だ聴いたことのない、感動的で素晴らしい新曲」をどのようにリクエストしたらいいのか、すべを知らないのだ。 ● 文化交流とか、古典に学ぶとかいうのは、「いい曲を満喫させてもらってありがとう。では、こういう曲はどうだい?」と返答してあちらへも満喫していただける作品を提示しないと、「満喫して耽溺しただけでろくな返答もない」状態では、極端な話、稚拙で哲学思想も教養も技もなくリテラシーもろくに行き渡っていないほど文化的レベルが低い‥とみなされると「隷属して言いなりになっただけ」みたいなことさえあり得る。各自の意思と理解力と判断力と創造力をたいせつに育てよう‥と志向すること。味方の集団を「隷属にぴったりに育てた」なんてことにはならないように、お互い、創造力や技アリで新発見もあって楽しい文化交流にしていければいいね。 ●楽器演奏者には「"歌もの"の伴奏を弾くのが最優先希望‥というわけではない」人たちが、プロアマ/ジャンルを問わずかなり多い。音大芸大作曲専攻出身の人たちの過半数(~ほとんど)は、器楽曲(アンサンブル/ジャズバンド/ブラスバンド/オーケストラ/楽器のソロやデュオやトリオやカルテットなど、"歌もの"の楽器伴奏というわけではないインストゥルメンタル曲)を作りたい志向を持っている。 ●"経済格差"の社会問題の是正に関心を持つなら、とくに富裕層の人々は「世の中、何億円~何千万円~何百万円といった単位でお金が巡るだけでなく、何十円~何百円~何千円といった単位でお金が潤滑に巡って営まれているフィールドを『そのようなわずかなハシタ金をやり取りするぐらいなら無料のボランティアでいい』と思わず、むやみに値崩れさせないように心がける」ことも、新人育成や格差是正の地道なチカラとなる‥と考えてはいかがだろうか。(恵まれた境遇にいるのに、音楽活動に対してネガティヴな気持ちになる人は、「王侯貴族領主の興亡が激しく戦いの絶えない情勢において、貴重で稀少な宝物である楽器を全ての教会や城が常備しているわけでもない風土を、旅芸人のように演奏旅行をしながらでも音楽活動したモーツァルトの時代に比べれば、今はずいぶん生きやすく音楽活動しやすい」「ファシズムの台頭で西欧東欧からアメリカ大陸に亡命しなければ音楽を続けるのが困難だった20世紀前半の音楽家たちに比べれば、気持ちのいい音楽表現を追求しやすい」という恩恵へもありがたみを感じましょう)。「自分がしてあげられることとは?」と考えるのと、「自分ができることとは?」と考えるのでは、思いつくことが必ずしも同じことばかりではないのです。 ●質素倹約・質実剛健の時代状況でも、「文化芸術や娯楽は世の中にとって無駄なものかもしれないが、無駄だってある世の中のほうがいいじゃないか」みたいな弱気な言い方の主張はしないこと。「文化芸術や娯楽は無駄なものではない」と、まずはっきり言う。「娯楽は、(深入りするのはいかがわしくてあぶないとか言われたくなくて)一過性のちょっとした楽しさだけにしておくのが好ましい‥とされたりするが、(安易とか低俗とか粗雑とか刹那的享楽とか言われたくなくて)洗練度を磨き熟達への求道精神や教育的意義をそなえるようになると、文化芸術の領域になじんで、(昇格するかのように)文化芸術における特定のジャンルになる」。「感性のセンスを軽やかに磨き、感動やトキメキを知って、表現力の豊かさを身につけよう‥というのは、勉強して知性を磨き高めるのと同じぐらい、人生にたいせつな生きがいを力づける要素となる。だから、無駄ではない。感動もトキメキも感じずに質素倹約していて、生きがいのある人生を快活に生きられるだろうか。そう考えてみれば、無駄ではないことが誰だってわかるだろう」と強気の信念を持って言っていい。 ●ものごとのブームを概観するに、「想定されるニーズのある購買者数以上に『話題になっているから』と乗ってくる人々で、購買者が過大になる場合」は予想以上に購買者が増えて大きな売り上げで利益は上がるし、「想定されるニーズのある購買者でさえも『無料の複写や中古品売買や無料交換やボランティアなどで間に合うから』と買わないで済ませる場合」はお金のやり取りの機会が逸されて売上げは伸びず利益は上がらない。(たとえば、「『1万人の人たちは本当にギターを弾けるから、その曲のバンド譜やギター譜を購入すれば弾くつもりだし、確実なニーズがある』/‥けれども『話題になってる曲だから、ギターを弾けなくてもそのギター譜を購入してみたが、やっぱり弾くニーズはなかった』という人々が2万人いれば、計3万部のギター譜は一応売れて利益は過剰に上がる」「1万人の人たちはギターを弾けるし本当にそのギター譜を購入すれば弾くニーズがあるにもかかわらず、複写したり無料交換すれば購入せずに済むしニーズは満たされる‥ゆえに、過大な想定でなくとも1万部は売れるはずなのに、ちゃんと購入してくれる人たちのみ5千部しか売れないのであれば、売り上げは伸びず利益は上がらない」というわけ)。あまりニーズがない人々も含めて過剰に売り上げが伸びる際には、「その購買者数やその売り上げが通常の状態で恒常的だろう」とは思わないほうが妥当であることは多い。しかしながら「ニーズがある人々が確実にいてちゃんと買ってくれるであろうと想定されるのに、買わなくても済ませられる要因によって、ニーズは満たされなおかつ購買者数も売り上げも伸びない」というなら、それは1店舗や1社で個々に対策に苦慮するよりは、業界の要対策課題として協議されるような種類の課題ではないか。 (‥上記のたとえ話の続きで言うと、「恒常的なのは本当にギター譜のニーズがある1万人。何も新たなことをしないで現状維持するのみでは、将来的には1万人を保つのも難しく減る一方なので、1万人においても期待して育て伝え成長力を望むことで質感を高めながら1万人を恒常的に維持できるのではないか」と読む者と、「3万人のうち、多数派に見える2万人の曖昧なニーズを探りながら応えることで、恒常的に3万人の購買者を保てるのではないか」と読む者とでは、その後の企画推進の力点や方向付けの選択が異なる‥ということです。このように考える際には、関心ごとは「人間や人間集団の成長や発展や、社会の在り方と現状及び将来について」ということへ向けられます。 一方、それとは角度の異なる関心の向けかたとして「物品とお金の流れについて」と考えることへの比重を大きくすれば、関心ごとは次のようになりがちです。「1冊16ページのギター譜を800円で販売し、1人めは『800円で購入』してくれた。2人めは複写‥だけどお金を全く払わなかったわけではなく『16ページなら10円コピー機で160円で複写できる』と160円払った。1人めの払ったお金は音楽業界を潤す。2人めの払った160円は、コピー機を導入して置いたショップに集金され、コピー機のメーカーやリース店や販売店を繁栄させた。3人めは『紙の複写よりもファイルの複写なら無料で交換できる』というんで、ギター譜も買わずコピー機にお金を払う必要もなかったが、ファイルを交換し合えるモバイルを買うことに何万円かを払った。お金はどこへ流れて行って巡っているのだろう。次はどんな物品装置が集金力を持つのだろう」というような話になります。「ごく一部の人たちが印刷機を持ち、版権を持って出版すれば、人々の多くは(印刷機も複写機も持っておらず)その出版物を購入する」「まず作曲して楽曲を仕上げれば、まず実物現物として手書き楽譜の紙がある。版下制作して印刷物を量産市販できる出版社と、原作した作曲者・作詞者には相応の権利がある。スタジオや催事で生演奏するのは、実現された表現活動の事実であり、録音録画はその表現活動の複写的記録である。機材装置で収録した録音録画を編集し、レコードやビデオを制作して量産市販できるレコード会社と、生演奏した歌手・演奏者など実演者には、相応の権利がある」ということを前提とした著作権の考え方は、「多くの人々がプリンターを持っているだけでなく、紙印刷しようとしなかろうと瞬時に複写したファイルを交換し合える。録音録画も編集も複写も手軽にできる」時代に至って、現状に合う著作権の考え方へと変えていく必要性も認識されていますが、そう簡単にすぐできることではないようです((さまざまな種類のメディアがいろいろな試みをおこなっている時期に、「全面的に新たな著作権法へと改正を」といった決定的なことを法律の専門職の方々が整理し理解して法案に整え国会で審議するには時期尚早ではあるので、(作曲者と作詞者だけでなく、編曲者や演奏者・出演者やプロデューサーや各専門職技術者やディレクターや学術研究の執筆者や専門職教育指導者や各担当専門職スタッフの妥当な権利が総合的・多角的に検討されて、暫定的あるいは部分的な改正をされていくことはあっても)とりあえず社会状況に大きな変化がなければ、十数年か何十年かは従来からの著作権法が基軸になりそうです。ネットにはたぶん、ネット普及の黎明期~健全化に大きく貢献した功労者が多すぎて、2018年現在、未だ功労者たちへの表彰や報奨が世の中へ顕かにわかるカタチで示されない(功労者なのに名誉回復していただかないと仕事がしにくい状態さえある)と思われますので、むやみな反感で世情が混乱しないためにも功労者たちへの表彰や報奨が(著作権法改正より)先立つ課題となるのかもしれません(‥世の中ご長寿社会で、セカンドキャリア、サードキャリアとつないでいく生き方を求める人は多いですから、「年配でも仕事を続けようと思ったら、とにかく頂点に立って君臨し続けるか/あるいはプライドを捨てて煩雑な仕事をこなすしかない」みたいな業界ではなく、「年配者は年配者なりのフィールドがあって、ちゃんとプライドも持って豊かな経験を活かしながら仕事ができる」ほうがいい、そのためには「功労が認められ敬意を持たれ、プライドを持ち続けていても"熾烈な競争で躍起になっている最中の若手のフィールドのおジャマ"にならず、若手の人たちは年配者ならではの智慧にあやかれる」ような業界の在り方を推進するのが好ましいでしょう)。いずれ将来、新たな著作権法へと大幅に改正されるようなことになった際には、"ガンコな守旧派"にならないように、柔軟で快活に文化芸術活動を続けていきましょう))。複写がお手軽すぐ簡単‥とはいかない長々と労力のかかる営みや育みや伝承の進行途上に、たいせつな仕事は多くあります。 人から人へ、「人間の、人間による、人間のための音楽を」「人間や人間集団の成長や発展や、社会の在り方と現状及び将来について」という方向へ関心を持つことのたいせつさが、今、以前にもまして見直されてきている時代です)。(この項、2018年2月記載)。 ●「練習したくない、コツコツ勉強するとかしたくない、それでも簡単に楽々と楽器演奏や曲作りができたらいいのになあ」という人々のワガママな願望を深追いして新商品開発しても、おおかたは3カ月や半年で飽きられる。独学独習は、「どういうのが"上手い"ってことなのか」がわかりにくくなり、あるいは上手さがわかるセンスを持っていても「あのように上手くなるにはどのようにすればいいのか」の方法がわからなくて、半年後には「もう飽きた」との感覚に至らざるを得ない場合が多い。「当初は練習や勉強はしたくないと思っていたけど、練習することでだんだん上手くなるのがうれしくなってきたし、もっと勉強してできるようになりたいと思うようになってきた」という人たちは、自分よりもっと上手い人たちとの人間同士のかかわりを通じて、表現意欲や向学心にめざめた人たちが多い。(この項、2018年5月記載)。 ●1990年代後半~2010頃までの趣旨勘違いのいきすぎた"ゆとり教育"は、今ではいろいろと反省点があきらかになっているでしょうが、ほぼ同時期の現象として"教育はサービス業"との考え方がもたらした教育現場への弊害についても、反省点をあきらかにしておくほうがいいでしょう。たぶん、「教育現場からパワハラやいじめを排除しよう」との対策として、「サービス産業のきめこまやかで気持ちいい対応に、見習うべきことは多いのではないか」との趣旨は含まれていたのだと思われますが、それとは勘違い気味の現象、すなわち「未熟でわがままな人の意向に従ってでも、ご満足いただいてお金をもらえればいい」みたいな弊害の多い状態が、将来においてたびたび現象化するのは、好ましいとは言えない‥と思われますので。人口減少が予測される現状では、「少人数でも精鋭主義でしっかり育成する」のがあたりまえの考え方であるはずです。「しっかり育成しよう」ということを最優先すれば、"ゆとり教育"の勘違いにせよ"教育はサービス業"の勘違いにせよ、どちらも勘違いするはずのないことを他の要因や都合でねじ曲げて誤った解釈をする‥それが、教育面からすれば弊害だといえそうです。「ほめて育てる」のは、自分の意志をたいせつに尊ぶ自尊心(プライド)によって、一貫した姿勢でものごとに根気強く取り組んでいく生き方の礎になります。ちやほやおだてて、出来ばえや仕上がりがいまいち芳しくなくてもそれ以上の腕磨きやレベルアップの望みは持たずそこそこに満足し、「上手いも下手も違いがわからないけど、ほめられるのはいい気分。サービスしてもらって気分がいい‥とはそういうもんでしょう」という認識の人々を増やすために「もっとほめて育てよう」と推進されたわけではない、そうではありませんか。 ● 人間は、学び始める段階ではまず、見習ってマネして学ぼうとする。それは人間の習性で、芸ごとについてはとくにそうした伝承は慣習になっている。「この知識やこの表現技は、リテラシーに類する基礎的な知識や表現方法で、誰もが学んでおくのが奨励される」というレベルのことと、「時代様式や各地の表現様式を理解するうえで、ひととおりは学習して知っておくほうがいいし、向学心や表現意欲が旺盛ならその様式の技や形式や特徴的装飾などを知るためにも、その様式で習作して習熟度アップするのは奨励される」というレベルの事柄と、「それ以上の専門領域として学び研究していく」レベルの事柄やむやみにマネてはヒンシュクになることとが、一応どの程度の事柄か、目安となる指標があればいいと思う。少なくとも、「中学高校の音楽の授業でも、この程度のことは学習済み」「街の音楽教室ではこの程度のことも学べるし、音楽学校進学希望者ならこの程度のことは習熟しているのが好ましい」といった学習レベルに応じてのカリキュラムを、それぞれの先生方が工夫しやすいように。「まだ基礎的な学習として習作している段階だから、自分のオリジナル作品の曲だなどとは言わずに、習作して練習を積み重ねている」という人たちがいることさえも知らないほど、音楽学習経験が少ない人が、「とにかく曲を作れば著作権を持てるんだ」といった関心で"音楽業界内の習熟度ギャップ"に互いに驚いたりしない程度には。さらに、「半世紀前にはこの程度の学習レベルの事柄は専門知識に属することで、誰でも知っていていいリテラシーだなんて思われていなかった。が、今では中学で普通に学習するリテラシーだ」と年季を経て総体的に学習レベルがアップしていくことへ、柔軟に対応できる姿勢を前提として。 ●「他の人々が、追随したり複写したりするからといって、それが『創造的に作る』ことや『表現意欲をもって表現の仕方を工夫する』ことをやめてしまう理由にはならない。ただし、何の工夫もせずに『他人の作品をそのままマネして自分の作品だと称したり、マネした本元へ敬意を持つこともなくむしろ排斥して自分が本元の立場に成り代わろうとするような行為』は、"それぞれの人が創意工夫しながら自分に適した表現力を発揮して共栄共存していこう"のと志向性からすればヒンシュクなので、するべきではない」というのが、クリエイターやアーティストの基本的な心得である。 ※ 一般書籍の場合、1冊1,000円の本では「著作者の取り分は100円~契約次第では150円前後/書店の取り分は220円前後/出版社の取り分は600円程度」と言われています(NHK『あさイチ』2018年5月16日でも「1,000円の書籍なら著者はの取り分は100円程度」と放送されていたので、それがほとんど出版業界の普通の状況だと言っていいでしょう)。1冊1,000円の本が1万冊売れても「著作者の取り分は100万円程度‥一般サラリーマンの月給3カ月分ぐらいにしかならない」「各書店では10冊平積みして完売しても2,200円程度にしかならない」「出版社は、本の原稿チェックやレイアウトなど制作や印刷製本の実費をまかなうだけでなく、全国の書店への流通や販売促進をプロデュースして現物の本を物流配送する予算を、(1万冊以上売り上げ達成を見込んだ本なら)初版600万円でやりくりするだけでなく、達成できない際のリスクの補いを要する場合もある」という状態です。音楽の場合、一般書籍のような「出版して売り切り‥読者の手元に届いたら済」というカタチだけでなく、むしろ楽譜は「手元に届いてからが練習の始まり、練習して他の人たちにも聴いてもらいたいほど上手くなったら、かっこいい演出も企画してライブで演奏しよう」と思うのがあたりまえの成り行きで、JASRACが後々も少しずつでも世間から楽曲使用料を集めてくれるような制度も用意されているわけです。だからといって、「作曲や編曲やレコード制作の専門的知識と技量を持っているわけでもない人や、コンサートなど催事の集客動員力あるいは制作した楽譜集や録音盤/録音ファイルを売りさばけるプロデュース力を持っているわけでもない人が、『メガヒット出したら何億円もの一攫千金!』みたいなことをいきなり想うのは、業界を知らなさすぎるから」というのが仕事人側のおおかたの認識です。普通に仕事をして、赤字にならずに普通に暮らしていけるぐらいの年収を得られるために、兼業もしている‥という音楽家・ミュージシャンは少なくありません。 (この項、2018年5月記載)。 ●従来的な「美学」(総合大学では人文の哲学の各論に位置付けられたり、芸大の楽理の研究分野になっている)は、メディア論や心理学との関係性で説かないと、的確な学説にはなりにくいように思われる。たとえば、たんに「音楽は‥」と言っても、「まさに生演奏している際の音楽は‥」というのと「機材装置で録音再生されている際の音楽は‥」というのを、同じ属性で語ることはムリがある。「楽器で演奏する際は、少なくとも楽器という道具を扱うことにより、日頃の練習から"自分は自分/楽器とのかかわりにおいて表現する"との客観性は維持しやすい」のに対し、「歌唱して高揚した心理状態でいる際は、楽器演奏に比べればかなり主観的になりがち」といった性質もある。音楽は「ダンス←音楽→グラフィックデザイン」の間にあって「全身でとことん音楽を表現すればダンスになるし、楽譜は"進行スケジュールを伴うグラフィックデザイン”のようなもので、音楽に関する文献には設計図や図説/図案/図解も多い」‥というのは19世紀までの音楽についてはナットクしやすいだろうが、20世紀の「電子楽器は未だないが蓄音機やラジオはあった時代の音楽の概念」「シンセサイザー類の電子楽器は存在するが、パソコンやDTMアプリが未だなく楽曲制作や録音編集に用いられていなかった時代の音楽の概念」など、メディアや楽器類や音響装置の進化をも考え、演奏する場(客席ありの演奏会場か/スタジオか/大道芸か、など)のシチュエーションに伴う特性や前提条件をもざっくりと分類しておかないと、たんに「音楽は‥」という話で語られても「なるほど、そうだなあ!よくわかった」と思えることがそう多くない。 「音楽というのは、物理学と幾何学‥たとえば弦の長さと振動比を考えながら、その比率は惑星間の距離に比例するだろうかなどと考えられ、音階で音のピッチを明晰に認識して音楽理論が編み出された。ケプラーも惑星の距離間隔を音階の音で例えるなら‥といった試論を提示しているし、ルネサンス~バロック期にかけては竪琴やオルガンの音階配列を惑星の並びで考案してみたような図説や文献も存在する。知的産物として楽器も発明され、人々は音楽を作り奏でて楽しめるようになってきた」ということが、美学ではあまり述べられていないのは、美学のもの足りなさであるように思われる。 人類の寿命が延びて80年以上生きる人々が増えたこの時代だからこそ、留意しておくほうがいいこととは、「移り変わっていくものごとの様相は、虚しく幻のようなものだ‥といった古来(鎌倉時代頃からかな?)から説かれてきたような虚無感に捉われないようにすること。5年ほどでブームになってはさめていくものごともあるし、30年以上あるいは100年以上ののロングセラーで長続きしているものごともあるし、何百年も何千年も前から今に伝えられているものごともある。19世紀以前の哲学/美学/芸術学には、どうやら『何百年も伝えられているものごとには大きな価値がある』というのは今でも肯定できる価値観だとしても、『5年ほどのブームでさめるものには価値がない』といった価値観が妥当であるかどうか」ということである。虚無感ではなく、「移り変わっていく様相には、さまざまなヒントやチャンスやまごころある友情や幸せや喜びもけっこう多い。人生を楽しく生きようと心がけることはたいせつだ」「19世紀までの"人生50年"が寿命だった時代には、長くてもたかだか10年~30年で成果を上げる必要があることばかりだった。80年以上生きれば価値観も考え方も変容してさらに優れた説き方ができたかもしれない事柄について、まだまだ生き足りなかった賢人たちの言説が伝えられている場合は多い‥との前提で考えてはどうか」「たとえば5年ほどのブームにおいても、無価値であるよりはできるだけ価値ある追求を‥との考えがあってこそ、あれこれのプロジェクトを成功させたくて頑張るのが今の時代の生き方だ。長期的プロジェクトには価値があるが、短期的なプロジェクトには価値がない、なんて一概に言えない」‥と思って、気持ちをゆったり構えましょう。 ●メディアは性質的に、「即物的な情報を伝える」ことや「事実を事実と確認して伝える」ことは得意ではある。が、「我々の未来や業界と産業の将来は、どのような志向でどうあるのが好ましいだろうか」と課題提起したり、「メディア論」そのものについて議論したりするのは、"人 対 人"の人間たち同士なら容易であっても、メディアそのものにとっては情報処理の範囲を超えて手に余ることらしい。(「現在~過去へと関心を向けて検証することばかりに停滞せず、あえて、未来へ将来へと関心を強く持って進めるよう創造的な努力をしていく必要がある」‥そう配慮するのは、メディアやAIに対する、人間側からの優しさである)。ゆえに、音楽産業では一応、即物的には「書かれたあるいは印刷された特定のその楽譜/収録された特定のそのレコード/製造された特定のその楽器や音響装置機材」などと即物的な対応面での配慮もするし、事実としては「特定のコンサートなど催事が企画され、開催実施され、とどこおりなく完了した」という事実レベルでの報告であればメディアは情報として容易に扱いやすいだろう‥ということへも配慮する。「曲のタイトルなんか付けても付けなくても、聴いてくれれば感動的だってわかるよ」ってことでは楽曲ファイルや情報をどうメディア上に載せればいいのか困る担当者もいるし、「DTMで作った曲の楽器音色は、実物の各楽器で実演するつもりがあるのか、それとも電子楽器音としてひっくるめて実演するつもりはなく制作完了なのか」がわからないと、「将来へ向けて実現をめざす企画推進途上の扱いとするのか/すでに過去に制作完了され流通へと提供される既作品なのか」との扱いに困る担当者もいる。曲作りをする際、「その曲の楽譜をちゃんと書き上げたら出来上がり/その曲の楽譜をちゃんと書き上げて演奏者へ渡せたら出来上がり」「その曲を楽譜を見てちゃんと演奏できたら出来上がり/コンサートでライブ演奏して拍手をもらえたら出来上がり/スタジオでライブ演奏してレコーディングし、録音盤や録音ファイルを制作し公表や流通市販できたら出来上がり」など、即物的なレベルや実施実現レベルで仕事運びに区切りをつけて、「この担当の仕事は、ここまでできれば出来上がり」と各自が認識できるようにすることは、メディアにとっても優しい。(この項、2018年5月3日追記)。 ● 一般的には「作曲するなら歌の曲を作って歌いたい」と望む人が多いことはわかっているけど、器楽曲に比べると歌詞は何か具象的な情景やストーリーを表現することにはなるので、「歌う人の気持ちや、その歌を聴いた人の気持ちに快くフィットしてナットクしていただけるか」という"心のあや"が絡んだ心情的反応へも慮らないわけにはいかない。じつは器楽曲のほうが、抽象的理論や技法として勉強しやすく作りやすく、演奏しやすい。演奏者は客観性を保ちやすく、聴き手も音楽の繊細な表現の妙味を耳を澄まして聴く姿勢で応じ、たとえ曲が駄作で演奏が下手であっても、少なくとも無害(曲が駄作で演奏が下手なのに歌詞が感情を高揚させセンセーショナルに盛り上がるなんてことはない)‥という一線がある。クラシックもジャズも、当初は素朴な祈りの歌やフォークロアの歌から、器楽曲がさかんに好まれるようになったという変遷はあるし、日本で伝承されてきた雅楽も器楽曲なので、「気持ちに合わない歌詞のついた曲を歌うよりは、器楽曲のほうが好き」とのニーズはあるはず。「新作を作るなら器楽曲/演奏するなら器楽曲/聴きたいのは器楽曲」と思っている人たちのニーズを全く脇に押しやったようなこの30年間ほどの日本の音楽動向の将来に、「1980年代のフュージョン聴いたら、今でもちっとも古くない。新作を作るなら/新作で演奏活動するなら、あの延長線上で器楽曲!」という人たちは相当数いるんじゃないかしら。 「先に楽曲が出来上がり、あとで曲名を付ける」という場合は、曲名は多少でも具象的にして「快く気持ちいい、減らず滅せず食べ物ではなく(音楽は食べ物ではないし味覚と聴覚とは異なるのがあたりまえなのに、わざわざ食べ物の名称を付けて"食うか食われるか"みたいな貪欲さや拒食症の幻想に悩む必要はありません)、無害で楽しい」ような想いとして伝わる曲名にすれば、「曲名が抽象的すぎてなんだかよくわからない」と困惑する人々へ対処しなければならない事態は免れる。「先にデザインシンキングである程度曲名を想定して/あるいは楽曲を習作するにあたってのお題として曲名を提示して、あとで楽曲を作る」場合は、「一緒にアイディア出ししたら一緒に楽曲を合作する」のと「一緒にアイディア出しして『自分がとくに作りたいのはこんな作風』ということを各自それぞれ見つけたら、持ち寄ったアイディアを振り分ける」のとでは作り進め方が異なる、と認識しよう。そのアイディア出しに作詞者も加わる場合は、作曲者側は「まず7割がたでも歌詞を書いて提示してもらって、それから次の作業」としばし待機し、作詞者が抽象的な空想や具象的社会現象のブームなどに詩ごころを遊ばせては音節数の計算をしてる間、作曲者は別の仕事をしていたり音楽のアイディアをふくらませたりする。「一緒にアイディア出ししたら曲作りも合作」に関心があるのは編曲者やアドリブ好きな演奏者で、作曲者ばかりが集まってアイディア出しするなら関心があるのは「自分もアイディア出すけど、他人のアイディアからもヒントをもらって、『そのアイディア、くれる?』『いいよ、アナタのほうが役立てることができるアイディアだ』などと合意のうえなら安心。『自分はそういう作風の曲は作る気にならないけど、全員で決めたことだから仕方なく作る』みたいな気分になるのはできるだけ避けたい」ってことだ。(2019年1月17日)。 作曲者というのは「自分が得意で好みにあうことや興味が向くことや新規に試みたいことに関して、有用だと思うアイディアは『ピン!ときた』と思えるぐらいの判別力はある」「同じアイディアに関して、自分も他の作曲者も関心が向く場合には、少なくとも『同じようなアイディアから出発しても、出来上がった楽曲はそれぞれに他とは異なる作風で、同じ曲にはならないように作りたい』とめざす」「まだ誰も『そのアイディア、自分が曲作りに活かします』とつかんでいない状態のままの"未着手アイディア群"は、できるだけ『未だ誰のものでもなく、可能性あるみんなのアイディア』のままにしておきたい(‥少なくとも『未だ誰のものでもないのに、可能性も含めて全てが包括的に特定のプロデューサーの所有であるのは当然』と思わなければならない状態よりは、『可能性も含めて、音楽の神様が、相応の研鑽を積んで技と職業観を持てるようになった誰か特定者に、もたらしてくれるアイディアだ』と思えるほうが心地いい)」といった特性がある。作詞者もきっと、そのように思う傾向の人が多いだろう。抽象的思考にむやみに欲を絡ませたがらないからこそ、人間模様や欲さえも客観的に眺めて認識できるアイディアというのはあり、そうした領域での歌詞を書くことを得意とする作詞者は多い。あれこれアイディアを思いつくからといって、思いつく全てを何でもかんでも欲しがるわけではない、だからアイディアを語り合えるのだ。そしてたぶん、そのような傾向にある作曲者や作詞者が、ちっとも利益にはあやかれないことがないように、人格的な面からも利益の分配の面からも音楽の著作権は存在しているのではないか、と想像する。(2019年1月18日) ● ネット上には、一般消費者に対して「月々定額制で消費し放題、楽しみ放題」とされたジャンルと、そうでないジャンルがある。たとえば、「月々1万円の定額で地域特産の野菜や魚介類が買い放題」とか「月々2万円の定額で、今年の流行ファッションのスーツやドレスや靴が買い放題」にはなっていない。あるいは「月々10万円で全国各地の宿泊施設やレストランが利用し放題」とか「月々1千万円で宅地や農地が買い放題」なんてのもない。では、月々定額制で利用し放題の代表格「鉄道などの定期券」とはどのような違いがあるだろうか。「利用する人が多かろうと少なかろうと、必ず維持して運行せねばならないから、せっかくなら多くの人々に利用してもらおう。しかも、開発や制作や新登場アピールを大々的にすることへの人的労力や費用を多大にかけなくてもいい程度の普及認知度は広まっており、利用者の増加に比例してかかるコストも大幅に増加するというわけではない」と考えやすいかどうか‥は、重要な視座だ。商品となるものが「物品」としてはっきりしているか「ニーズの範囲」がはっきりしていて、なおかつ中古品のドンブリ勘定でなく「新作、新たな生産物」で、「単価が高い、少なくとも原価割れするほど単価が安すぎない」ものについては、わざわざ「月々定額制で消費し放題」にするメリットはないから、各商品に値が付いて販売されている。「月々定額制で消費し放題」なのは、「商品としての物品があいまいだったり、ニーズの範囲が曖昧でも『なんとなくほしい/なんとなく興味ある』との気持ちを誘う商品だったり、中古品のドンブリ勘定でもそれなりにニーズはあったり、単価の値ごろ感が定まりにくいがオークションで高価な値が付くほどでもなかったり、逆に定まり過ぎている値ごろ感に乗って『掘り出し物の価値や強いニーズを仕分ける手間や各商品説明を省き、"まとめてとにかくお得"なジャンク』扱いだったり‥」という商品が、「従来の資本主義や、"生産~流通~消費"の経済システムでは産業が成り立ちにくいのを、今の時代なりに新旧入り混じった実験場のフィールドで『もっとほかに産業の成り立たせ方はないものか』と模索されている過渡期である」のかもしれない。(‥そのような実験場のフィールドでは、「ブレーンストーミング/デザインシンキングでアイディア出しすることに慣れているクリエイターやアーティストたちにとって、よりクリエイティヴワークの仕事の進め方にふさわしく合うような著作権の在り方とは?」などといったかつてはなかった課題も、たぶん含まれている。ちなみに「地球人が移住するなら、月面ステーションや火星ステーションと、地球の海底ステーションと、大気があって国境のない南極ステーションとでは、どこが地球からの移住に適しやすく未来都市を築きやすいか?」といった課題は、21世紀前半の地球文明の現状からは飛躍しすぎていて、資本主義や経済システムの難題を忘れて希望や空想を与えてくれるかもしれないけれども、着々と進めれば実験から成果を期待できるような段階には未だ至っていない。少なくともクリエイター/アーティスト/ミュージシャンにとっては、「快適にクリエイティヴワークしやすい著作権の在り方とは?」といった課題のほうが、関心を向けやすい実験テーマなのだ)。 とりあえず、「月々定額制で消費し放題」の市場に依存しすぎずに、「商品としての物品ははっきりさせる(作曲する場合『紙に記された楽譜』と考えるのはとてもシンプルでわかりやすい。それ以外の物品を想定すると、音楽産業に栄えてほしいのに別の産業の商品が売れるのを傍観することになったり、音楽産業にはあてはまらないような制度のかけひきの妄想に惑わされたりしがちだ。『紙に楽譜を記して演奏者に渡せば、演奏者は歌ったり楽器演奏できる。作曲してちゃんとした楽譜を仕上げられるのは、紙に付加価値を付ける作業でもある』と思えるのはわかりやすい)」「生産するのは新作がメイン」「単価が安すぎない」という路線で通用するクリエイティヴワークを可能にできるよう、腕前を上げるのが、必要なことだと思う。(2019年1月9日)。 基本的に、新製品や新商品のデビューというのは「価値があるかどうかわからない/どの程度の価値やニーズがあるのかまだわからない」という段階から「こういう価値がある/値打ちがあることがわかったのでお金を出してもほしいと思う」という段階へまずステップアップすること。1枚10円の紙に、楽譜が記されて数千円の価値が付くようになる第一歩だ。(‥一般的に広告屋さんの話をすると、そうした商品化スタート段階からかかわる広告屋さんの仕事の幹は、「価値があることをわかってもらえて良質な商品は『商品にチカラがある』と実感してオススメしたくなるから、気持ちにウソがない」と言われるぐらいで、「知名度を高める」とか「サプライズ感で稀少性を感じてもらう」などというのは枝葉のことだ)。「価値があろうとなかろうと、ざっくりまとめてお得。価値あるものの発掘とか、価値をわかってもらえるよう理解を広める努力には無頓着」という状態のままにしておかれる所へ、これぞ!という新製品や新商品を出すのは開発者や生産者にとってあまりメリットがないものだ‥とは一応知っておいて、むやみに依存しすぎずに「新作を作ったらどこから出そうかな」と検討してはいかが。(2019年1月11日) 上記の「商品としての物品ははっきりさせる」というのは、即物主義を促そうというような話ではない。昔の言い方をするなら「楽曲はかなり抽象的な作品」ではあるので、作曲者は「作曲せず楽譜を記さなければ、五線紙それ自体にはそれほどの価値はない。自分が曲を作って紙に楽譜を書けば付加価値を付けられる。"今まさに!"曲を作っているときのエキサイティングな気持ちに比べれば、曲を仕上げて楽譜を書き上げた際の気持ちは『ひと仕事済んだ』という気分だ」と思う。楽器演奏者は「弾かずに音を発することがなければ生じないような付加価値を、自分はこの楽器を弾くことにより生じさせることができる。人々が集まり"今まさに!"楽しさや感動を感じるのも、楽器を弾いてこそ。設備投資のようなものだと思って楽器を購入し、名器ともなれば高価でも欲しがる演奏家はそれなりにいるから財産の価値もあるが、演奏してこその価値を生じさせるのがコレクターと演奏者の違いだ。レコーディングで録音されたのは楽器の音で、自分はその楽器の外側にいる」と思う。歌手は(楽器奏者のように楽器の外側にいるわけでなく主観的にならざるを得ないので)精神的にはちょっときついかもしれないけれど「自分が歌えば人々は集まり楽しさや感動を覚える。歌わなければ生じることのない感動を、歌えば生じさせることができる。何も録音されていなければ100円もしないブランクディスクだって、自分が歌声を録音すれば何倍もの付加価値を付けられる。録音されたのは過去の自分の歌声。スタジオやコンサートでライブで歌ってる瞬間のほうが"今まさに!"を感じて感動的なのは当然だけど、その過去の歌声の録音にさえも多かれ少なかれ感動する人々はいる」と思う。そう思ってケジメをつけながら、次の仕事へ向かえるよう気持ちの安定を維持することはある。(歌手の場合はとくに、「商品は何か‥がわかりにくい状態で歌手本人が『とにかく自分を有名人として売り出したい』みたいな考えでいると、人権問題へとこじれるリスクもある」から、しっかりとした考えを持つこと)。"あれも抽象的、これも抽象的"みたいなあれこれ分野の複合でとりとめない気持ちになるのはイヤだ‥「商品としての物品がはっきりしている」のは仕事の段取りが進めやすい。(ざっくりいえば「物質的な形を超えている≒抽象」で、その代表的学術は数学。抽象的というのは漠然としてとりとめないのではなくて、論理的で理性的なんだ。「物質的な形のあるもの≒具体」で、代表的な芸術表現は彫刻や建築。具体的現象といったニュアンスで「具象」と言うと社会科学あたりまで含むこともある。昔((‥記譜方法が発達し始めたルネサンス期以後じゃないかと思うけど))からしばしば、美術家は「絵画が楽譜のようであればなあ。造形オブジェが楽器のようであればなあ。そうすれば、倉庫に保管したり、倉庫から出して眺めたりするだけでなく、演奏して伝わる感動があるのになあ」と音楽に憧れてきたと言われるが、その望みは動画で叶え得るか?‥というのはまた別の話です)。(2019年1月21日) 楽器演奏者の人たちは、自分の楽器をかかえて/あるいは会場に常備されているピアノなどがあればすぐに演奏に取りかかれるし、歌手の人は本人が会場へ行きマイクや音響機材があれば、サウンドエンジニアやディレクターとともにスタンバイOKだ。演劇やドラマや映画の場合は「脚本の読み合わせをしたらすぐスタンバイOK」なんてわけにはいかず、大道具小道具や舞台美術や役柄に合う衣装などがそのつど必要だ。‥そういうのを、音楽プロデューサーは「実演して録音録画するさまざまな種類の芸術のなかでも、音楽は付加価値を生じさせる効率がいい。作曲者が1人、作詞者が1人、演奏者が1~5人程度でスタッフも同程度の小規模な人数でも、ちゃんと作れば著作権(知的財産権)を持ってあちこちで公演したり、メディアを通じてリリースしたりできる」と言ったりする。しかも、おけいこ事のレベルからメソッドのカリキュラムがあって、すそ野は広くスタートしやすい。 ネットが普及した社会においても「物品としての商品がはっきりしていて、安心して売買され流通する」‥というのは、極端すぎるといわれる経済格差を緩和し、景気を活性化する。「ネットを介して楽曲ファイルや録画ファイルを送信し、代金のやり取りがあってそれで仕事が済む」ような仕事の仕方が可能になったからといって、「紙冊子の楽譜が出版されるなら1冊3,000円でも購入したい」とのニーズを無視して機会を失う必要はない。「世界の富の半分が、5%の富裕層に集中している」というのが経済格差の問題ならば、「95%の側はその富をうらやましがったりしているのではなく、従来は価値があると思われてこなかったものに価値を生じさせる/価値がないわけではないが富としての価値に換算しにくくて市場が未熟な分野を成長させる」との考え方で、「5%の富裕層ばかりに富が集中することのアンバランスな状態から、世界の富の半分は(5%でなく)30%の幅広い人々が持っている状態をめざす」ことで、中間層の豊かさとやりがいが増し、特色ある新規事業の発掘もさかんになり、景気は活性化されるのではないか。30%へまで拡張すると、「持てる富は多ければ多いほどいい‥との考えではなく、自分の手に余り過ぎるほどの巨額な富を持つのは苦しいことだ‥との考えを持つ人たちが、まあまあの小金持ちとして多く含まれる」ことになるはずだ。その感覚は、むやみに音楽産業が貪欲な妄想でギャンブル化されることを好まず、それぞれに「得意でできることを適宜な規模でする」との認識とともに健全化を促すのではないか。(ちなみに、日本の音楽業界において「富が5%の人に集中する」ような状態がみられるようになったのは、たぶん半世紀ほど前1960年代以後のレコード業界においてであって、その時代は「レコード業界内では5%の"歌謡大ヒットで一攫千金"派はあまり健全とは思われていなかった」一方で、「音楽業界は歌謡曲のレコード業界だけではなく、歌謡曲以外の音楽ジャンルが多様に栄えていて、レコード店よりも楽器店のほうが楽器や楽譜や音響装置やレコードの品ぞろえ品目豊富でコンサートチケット取扱や音楽教室併設して店の規模も大きい」状態で世間でリアルに営まれていたので、歌謡レコード業界内での富のアンバランス問題などかかわりなく気にせず音楽で仕事をしている人たちは大勢いた。1970年代、繁華街にある大きな楽器店では、通りに面した入口の横にデモンストレーション用のミニステージがあって、「本日夕方19時から上の階のサロンでライブとレクチャーがあるのでお越しください」とのプレライブや「珍しいエスニックの民族楽器とバンドのコラボがあります」「この楽器でこんな曲も弾けます。上の階のレッスンルームでレッスン生募集中」「ギターや管楽器のリペア相談会。楽器職人がアナタの楽器の具合を見てくれますのでどうぞご持参ください」「デビュー2枚めのレコード新発売で歌手をお招きしました。店内でレコード買うとサイン入りです」などの催しに人だかりができ、「店の前を通れば何か楽しいことやってる」感で通りもにぎわっていた。1980年代には、大企業ではマーケティング部門がデータ分析や顧客の囲い込みに関心を持つ一方で、プロモーション部門/イベント部門の姿勢は「顧客の囲い込みなんて窮屈な考え方はしない。データ分析よりも発想の飛躍、開拓と推進、ともに文化的社会を築いていこう」との志向を掲げる傾向が顕著になったようだ。「文化芸術を推進するからには、最優先課題は文化芸術の良質さの追求と人々への普及、および心豊かでスムーズなコミュニケーション。お金を扱う部門はあっても、金儲けを最優先課題に置き換えてはいけない」との認識は広く浸透したので、80年代イベントブームも(いかがわしい興行ではなく)健全な文化政策・観光政策・地域活性化政策として行政とともに広まった。もし「音楽と、金儲けと、よりたいせつなのはどっち?」と二者択一を迫られた際は「金儲け優先」を選択するのは不健全な道で、「享楽的幻想に耽溺して極度に現実逃避するようなことを促すのは社会的に好ましくない」というのも社会通念だったので、「音楽を追求するなら、金儲けに偏り過ぎない。現実逃避の享楽に偏り過ぎない」とのバランス感覚を心得つつ、多様でありながら教育的にも好ましく音楽産業は栄えていたのだ。「音楽産業はまともで健全な産業。コツコツ努力して勉強して練習して少しずつでも上達するにつれ自信と誇りを持てる教育的な志向の本筋も、心豊かに美的感性や表現力でやりがいや楽しさを実感できる世の中にしていく産業としての存在意義も、まともで健全だ」との立場で論を立てて未来へ存続させていく必要がある、と認識しておくように)。「95%の人々の側に、幅広く(一攫千金というよりはちょっとした)チャンスがある」と言いやすい音楽おけいこ事事情だが、その際、日本の伝統芸能には根強い「免許皆伝をより上位レベルになっても『新作を作る』なんてことはなかなか許されず、昔の作品を忠実に受け継ぐだけ。新作を作る権限は、家元の特権」といった慣習や、「勉強しなくていい、習いに行かなくていい、ちょっとやってみてすぐ飽きるような姿勢だっていい、消費者のままでいい」といった軽率な先導や、「自分の立ち位置は95%の側だ‥と認識していない勘違い気味の職業観で、音楽産業や音楽業界事情についてあれもこれもタブーで議論しにくい」といったムードがあいまって、クリエイティヴな姿勢で知恵ある音楽家/ミュージシャンになることがちっとも推進されない‥なんていうのは、あってはいけないことだ。発展性ある志向はどう理解しておくのがいいか‥を日頃から関心を持って考えるようにすれば、昔よりはもうちょっとでもマシな解決策を選ぼうと思うものだ。(2019年1月21日) ●作曲家/編曲家が、ブランド力ある知名度を持っていたり、「自分が手がけるからにはこのような作風でなければ/自分が手がけるからには仕上がりはこうでなければナットクいかない」との(チーフディレクター相当程度かそれ以上の)仕上がり質感への判断力とこだわりを持っている場合、「他人からの評判がよかったからといって、作曲家/編曲家自身は、こんな仕上がりではまだまだ‥とナットクしていない」「これでこの曲は仕上がった‥と判断できるのは自分だけ/任せられる人だけ」と思っている場合は多く、その判断レベルは「一定レベル以上の基礎的な作曲技能と専門知識を習得しているか」といった(世間一般的に示しやすい客観的指標の)判断レベルと同じではない。(「その審美の判断ができるだけブレないように、若手育成に労力を注ぐなどへはほとんど手を出さない」とのスタンスの人もいる。「後世へ伝承するのはたいせつなことで、若手育成に労力を注ぐことも重要。そうした営みで審美の判断が多少ブレたりする場合があっても、それは、時代状況の変化に柔軟に対応しながら"次世代になじみやすい審美をどう判断するか"と検討する機会にもなる」とのスタンスの人もいる。スポーツにたとえるなら、「コーチでもなかなかできないほどのすごいことをやってのけるから、コーチからも尊敬されているアスリート」と、「コーチに指導してもらわなければ基本的なことも知らないのに、プライドは高くて"自尊心に目覚めて生意気っぽくなる反抗期"みたいな強気を誇示しがちな"初心者から一歩ステップアップして自信がついた練習生"」とは、習熟レベルも強気の根拠も異なる。が、「たいして教わらなくてもメキメキ頭角を現し始める才能抜群な人」は初心者にもいて、そうした才能アリの自覚がわいたときこそ、ちょっとの背伸びで高慢になったりせず、(コーチとの相性がよくて、伸びしろを抑えるようなガマンの押し付けがなく、理解しやすく納得できる指導力や尊敬できる人柄と志向性にしたしみを感じたならば)気持ちよく教えてもらえるよう"礼節ある後輩世代"の態度を心がけるほうがいい)。 ●"趣味みたいな仕事"に見える業界は、じつは"仕事が趣味"みたいな人たちがひしめき合っている。センスと技を磨いて頑張り続けている人たちが多いのだから、勉強嫌いで練習嫌い‥なんて言っていられない。それだけに、教育のニーズもある。教育においてたいせつなのは、指導する相手(生徒/弟子/受講者/後輩)を"消費者"と捉えるような安易な考え方をしないこと。なぜなら、相手を"消費者"と捉えると「相手の素質に適した能力を伸ばし、できるだけ正しく確かな認識を持てるように教え伝え、できるだけ誠意をもって育成する」ということが二の次になりかねないから。「教育に力を入れて、派手でなくても途絶えることなくしっかり受け継いでいく‥連綿と続く音楽史の智慧だ」‥なんて言うと大げさに思うかもしれないけれど、教育指導のスキルは習得するほうがいい。「人々が、きちんとしたことを学べるように。各自の個性や志向性に応じて、『学んでよかった』と思えることを増やしていけますように。教える側は、教わる側の各々の個性や志向性に応じた指導ができる柔軟性を持てますように」というのは、教える側にとっても教わる側にとっても、趣味おけいこ事にかかわる多様な価値観においてむやみに惑わず信念の支えとなる願いです。長年根気よく続けていくには、「理論や知識や技をあれこれ習得している」だけでなく「教えるのが上手である」というのはいいことです。『ピアノの弾き方/ヴォイストレーニングの方法』といった本やサイト情報を読んだだけ‥では、結局のところ、ピアノを弾けるようになるわけでもないし、歌が上手くなるわけでもない。レッスンにかよって教えてもらうほうが上達するのはあたりまえ。作曲も同様。「レッスンに行こう‥と思うのに、ちゃんと教えてくれる教育指導者がいない」というのは、つらいことです。 ↓↓ ‥みたいな現状(2017年)において、なんだかあいまいでタジタジするようなことは手がけたくないので、思考力でものごとをしっかり考えられるよう、念押ししておきます。 これぐらいの課題提示があれば、「前向きの議論しようとはするのだけど、何が課題になっているのか‥がそもそもわかりにくく、どういった共通の認識において各課題への対策案を考え合えばいいのか‥もわからない」みたいなことにはならずに、議論を進めることはできるでしょう。 「ここに記述して説明したことは、『歌詞』ではない」、 「こういうことは考えずに、『演奏家を崇拝しながら音楽を聴いて陶酔すれば、面倒なことは忘れてリラックスしてくつろぐことができる』といった思考的処理をする目的で記述したのではない」、 「さまざまな立場で音楽を仕事にしながら現状課題を認識している仕事人たちが、『自分の立場や自分の担当職務から言うと、このような状態にある』ということを(感情的に走らず穏やかにきちんとした態度で筋道立てて)述べれば、検討するほうがいい議論の議題はあれこれ把握できるはず。自分も意見を言いたいから、相手が意見を言うのも尊重する。『議論を抑えて何も言わず/言わせず、音楽にくつろげばそれでいい』といった方向へ導くことの限界は、すでに認識されているはず。前向きな議論を活性化するためには『人間は、とりあえず現状にそれなりに満足していれば意見など言わないものだ。不満がある場合だけ、あえて意見を言おうと奮起するものだ』といった思い込みの前提をやめること。『前向きな議題や提案やアイディアがあるから、(奮起などしなくても)平常心で理解しやすいように意見を述べ合って他人の言う意見も理解して、(深刻な表情で侃々諤々議論を戦わせ勝った意見だけを全てに通用させる‥というよりは、さまざまな立場からの見解と指摘があるということを前提として)できれば気持ちよく必要なことを議論できる』というコミュニケーションの仕方を、あたりまえの習慣とするようめざすほうがいいのです。音楽に、音楽業界に、ジャーナリズムは必要です(ジャーナリズムを敬遠して産業的に低迷状態にならないように)。『何も考えず思考停止状態で陶酔して興じるのが、音楽をきわめる究極の目的だ』という境地に至ろうとは思わないように」。 「寡黙にならず、音楽理論/作曲技法/音楽史/比較音楽学(民族音楽学)などを学術的に解説したり教育カリキュラムを考えて理解しやすく説明してくれて、『そうやって理解できたことの応用で曲を作るとこうなるんだ』‥と示してくれた先人たちがいることは、とってもありがたいことだ」と思いましょう。 さらに、「思考し、理解し、検討して議論し、試みて妥当な仮説や照準を想定し、あまり偏らず狭くならず、(『条件も環境も異なり共通の課題を認識しにくい』あるいは『たぶん必要とする解決策は共通ではなく異なるだろう』‥という人たちが、それぞればらばらに考えを言っても意見はまとまりにくく、なかなか解決策へはたどり着けず、満足できる人たちは増えていきにくいので)『特定の条件や環境で、共通する課題として認識している人たち(集団/ポジション)』において意見をまとめ、総体的にはできるだけ満足できる人々が多い/増えるように」とめざして調和的に解決し支持を得ていければ、理想的です。 (上記はおもに2017年1月~7月にかけて記述し、渡利辺祥楽舎のウエブサイトの作曲レッスンご案内ページの脚注に掲載公表していた文章です)。 なお、著作権についての大筋の考え方を付記しておきましょう。おおまかに言って、一般社団法人 日本音楽著作権協会(JASRAC)は「収益性のある音楽著作物(楽曲など)について、利用に応じたお金を集め著作者へ配分する公的事業団体」です。平易に言えば、JASRACには、JASRACが集金を得意としているフィールドがあって、たとえばレコード類の市販やカラオケ店での楽曲利用やメディアの番組を通して楽曲を流すなどはJASRACが得意とするフィールドでの楽曲利用になります。それら楽曲の作曲者や作詞者は「JASRACへ納める年会費よりも、JASRACが集めて持ってきてくれるお金のほうが多くなりそうだから、JASRACへ入会しよう」と思えばJASRAC会員になります。JASRACが集めて持ってきてくれるお金‥というのは、プロデュース会社や制作会社が絡む仕事の場合、当初の作詞料・作曲料・出演料など制作時にもらうギャラとは別に、「制作物の類がその後利用された際には、JASRACがその曲の楽曲使用料としてメディア会社などから集めてくれるお金だ」とおおざっぱに理解しておきましょう。「JASRACから分配されたそのお金の受取人が、その楽曲の著作者である場合はとくにややこしいことはない」「その楽曲の著作者や遺族ではない人が受取人になる場合や、共同制作した法人が受取人になり受け取ったお金をさらに作曲者や作詞者の個々へ分配する場合には、どのような契約を結ぶかということに無頓着ではないほうがいい。/共同制作する当初に『特定の演奏家が持ち曲として演奏活動する前提で依頼されて楽曲が作られる』場合には、個々へ分配する際、作曲者や作詞者だけでなくその持ち曲演奏家にもお金が分配される場合はあるらしいが、契約次第ではあるようです。(共同制作メンバーでもなく持ち曲としているわけでもない一般演奏者が、その楽曲を演奏する場合は「分配金を受取る側の立場ではなく楽曲使用料を支払う側」です。なぜなら「その楽曲が作曲者や演奏者によって未だ作られていなかったら、その楽曲を歌ったり楽器で演奏したり録音したりすることは成し得ない」からです)。 文部科学省及び文化庁は「基本的には創作し表現し作品を作るすべての国民に著作権はある」としています。(すべての国民に基本的人権があるように、すべての国民には基本的に著作する権利がある、と思っていいですが、その著作する能力を活かすには、創意や考えやアイディアや表現力に磨きをかけていくこともたいせつなわけです。テレビの教養講座番組を見ていたら「小中学校の教育現場では、児童が描いた絵画にもその描いた児童には著作権があると配慮するべき」などと大学教員が解説していましたが、たぶんそれは「教員といえども、その絵画を描いた生徒児童本人(あるいは保護者)に無断で勝手に、その絵画をネットで公表したり広告や商品のイラストに使ったりしてはいけない」という意味での話だとは思う一方で、「生徒児童の作品でさえも著作権があるのに、美術や音楽の教師の側の作品に著作権がないことなどあり得ない」のも当然で、著作権についての論議はさかんになるでしょう。高校ぐらいのレベルになれば、「練習は練習。あれこれ練習して作ってみた習作と、自分なりの作風を確立して世に出そうと思って作り仕上げた作品とは違う」といったケジメを認識することも必要となるでしょう(美術の教師はクロッキーやデッサンや風景画の構図や彫刻の素材など、基礎知識や基礎技法について教える必要もあるでしょうし、音楽の教師は楽譜の読み書きや楽典やコードなど音楽知識も合唱とアンサンブルの指導もする必要があり、「教師が『風景画を描こう』と指示したのだから、児童生徒がそれぞれ自分で描いた風景画の絵の著作権は全て、風景画を描くよう指示を出した教師が持っていて、公表するのも挿絵に使うのも全て教師の任意」なんてことはないのはもちろん、逆に「一定レベルの知識や技法を未習得の児童生徒が、ごく素朴にあるいは勝手気ままに表現してゴリ押し的に著作権を主張するのを、個性だと思って尊重して見守るだけ」なんてことでは教育指導の現場は混乱するからです。ただし、これは「教師は基礎知識も基礎技法も習得していて、自分でも作品を作るのは当然」と自覚していることが前提であって、もしも「指示出しはするけれども基礎知識や基礎技法は習得しておらず、自分では作品は作らないし作れない/演奏や監修するだけの立場」という人が顧問を務めたりすると、その顧問の人が「自分が成し遂げた仕事の業績や実績を確実にするには、『指示に従って各人がそれぞれ作った作品の著作権は、総じて指示出しした自分が持つ』と言いたがる/言う成り行きになる/言わざるを得ない」‥との状態もないとはいえないわけで、業界事情を鑑みながら著作権について論議する際には一考すべき課題とはなるでしょう)。さらに、一定レベルの知識や技法の習得が認められれば「ナットクできる出来栄えをめざす」という上達への創造的姿勢を教えるため、「先生がいいと言ってくれた作品はいい作品」といった価値判断を他人に委ねる習慣を超えて、「自分が価値あると思えてナットクできる出来栄えをめざすように」との自覚を持つことを推進する必要だってあるかもしれません。また、「自分がナットクできる出来栄えならそれでいい」とそこそこの自己満足が個性と同一視されてそれ以上の能力の成長を各人がどう望めばいいのかわかりにくくなったり、「誰でもどんな出来栄えでもどんな作品でも一律に‥というわけではなくて、表現技量や表現力の底上げを」といったことへの対策が必要になれば、作曲基礎技能検定など、何らかの「ステップアップと客観的評価が公に認められるような制度」は多かれ少なかれ必要になることも考えられます)。文部科学省や文化庁は、どんなに人気があって素晴らしい楽曲でも、作ったその曲について直接お金を集めて持ってきてくれるわけではありません。収益力のある楽曲ならば、作曲者や作詞者は(作詞/作曲したその曲が、自分の知らない誰か多くの人々に自分の知らない所で歌われたり演奏されたり聴かれたり論評されたりする‥ということに寛大な気持ちになれるか、むしろ喜びに思えるなら)その曲の使用許諾する権利をJASRACに預けて「この曲、用いていいよ。用いたら使用料をちょうだいね」という状態にするのです。 音楽著作権の保護期間はこれまで「著作者の没後50年まで」でしたが、2018年3月以後に国会での審議を経て「著作者の没後70年まで」に改正されるとのことです。また、文化庁が京都へ移転して以後、学校教育における「美術」や「音楽」の教科はこれまでの文部科学省管轄から、文化庁が芸術教育のありかたを策定した内容へと変わっていくそうです。 説明するのは、「相手と理解を通じ合わせ、我々はどのような状況において何をするのが好ましいか‥の合意を探り、相手は何をしようとしているのかを認識し、自分は自分のできることを明瞭に認識して、前向きにものごとを進めるため」です。ちゃんとした議論で、各々の協力の仕方のアプローチがわかるように‥とめざしましょう。 |
「本気で演奏活動していきたい。歌手・演奏家をめざして18曲用意するつもりがある」 との気持ちをあたためている方(おもに専門学校や音大芸大の演奏系専攻出身者の方)へ、 『頑張りたい気持ちがあるなら、今からでも頑張れ!』と元気づけるためのコメント: (下述の文章は、ユーチューブやインスタグラムが世間一般に大ブームになる前の2015~16年にかけて、当時はわりと先駆的なセンスで記したものです。音楽業界や芸能界の状況は変容していくものですが、「そんなことわかってる人は多いでしょ」「それ、今とはちょっとメディアの状況が違うんじゃない?」という部分もあるとはいえ、参考になる‥という人も少なくないのではないでしょうか)。 ───────── ─── ──────── 「歌手・演奏家になりたかったのに‥」との気持ちをかかえて迷っている方は、「演奏家というのは、常に『次の新曲レパートリーを用意しなくては』ということへ関心を持ち続けている」との認識をお持ちください。 演奏家の仕事というのは、ひとたび人気が上がると「本人が来て出演してくれてこそ」というステージや収録の仕事が増え、合間を縫って次の仕事で演奏する曲の練習をしたりリハーサルに行ったりの日々になり、スタジオや自宅でじっくり曲想を練って楽譜をシコシコ書いては楽曲を仕上げるような仕事の仕方ができにくくなるので、多少は自作の曲も含めるとしても新作楽曲の大半の用意は作曲家に頼みたくなるのです。ゆえに、作曲家と演奏家は「演奏力においては演奏家のほうが上手い/作曲力においては作曲家のほうが上手い」との分担制で信頼して任せるような関係になります。 とくに多忙なプロ演奏家は、「ステージに立ったりスタジオ録音やリハーサルや出張公演や営業活動(レコード店や楽器店でサイン会をしたり、出張公演の際には各地地元のプロモーターへ挨拶まわりするなど)や打合せで大忙し‥という日々が連日続く」みたいな状態で、「演奏レパートリー曲を半年~1年毎に18曲ぐらいずつ次々に必要とする(18曲もあればどれか当たるだろう‥というよりは、1曲しか用意していなくて人気高になったら一発屋にならないよう後で大あわてする)ので、できれば新作の曲は自分でも3曲ぐらいは作ればいいとは思うし、奏者複数人のバンド/アンサンブル曲を作るには作編曲技法も習得すればいいとは思う。けど、来る仕事はできるだけ断らないで活躍の機会を増やそうというときに、『出演するよりもじっくり曲作りする余裕がほしい』なんて言って出演の機会を逸するのはもったいないので、とにかく演奏活動と練習に忙しい。作曲家へ新曲作りを依頼したい」というのがプロ一般の実態だ、との認識をお持ちになってみてください。(18曲も用意するのは多過ぎ‥なんてことはないってことは、あなたが好きな演奏家・歌手・ミュージシャンがどれほど多くの演奏レパートリーを持っているかをお考えになってもあきらかだと思います。「そういうペースで演奏活動することなど、考えてもみなかった」というなら、「では自分は、どのようなペースであれば演奏活動が可能か」ということから再検討してみるといいです)。作り上げた出来立てほやほやの楽曲を、一番煎じで初演し持ち曲としている歌手・演奏家がいるとして、その方々が関係者と力を合わせ人一倍の多大な努力と多忙な活躍によりヒットした曲を、何百番煎じか後に追っかけるように演奏していても、初演演奏家のようなエキサイティングな成り行きは期待しにくいものだ‥とお気づきでしょうか。伝統クラシックの大作曲家といわれる人たちでさえ「100曲作れば100曲すべてがよく知られた名曲」なんてことはなかったのですから、「18曲用意したらほとんどが人気高の名曲になるだろう」との想定で取り組むわけではありません。名曲名演が世に知れ渡り広まるのは簡単なことではないだろうと承知のうえで、それでも「20世紀に比べれば、ネットの普及により人々に初演の新作楽曲を聴いてもらえる機会は格段に増えた」ということも前向きにお考えになって、演奏家としてのお立場でご用件(どのような曲が幾つ必要で、どのようなリスナーの方々に共感していただこうと想定し、どのようなライブコンサートや録音公表の仕方をお考えで、ご予算はどれぐらいか)をお考えのうえ、お電話ください。 弊舎では、「演奏活動するため新作楽曲を必要としているので、作曲を依頼する」「演奏家の立場でも、自分で作曲できるようになりたいので、曲作りレッスンに行きたい」「楽典や曲作りの指導ができる音楽講師になりたいので、スキルアップ研修のつもりでレッスンに行きたい」とのご要望には対応致しますが、「演奏活動するとしても、基本的に作曲の必要は感じていない」という方へ「なんでもかんでも新作楽曲の演奏家になることをめざすといい」というような話ではありません。 なお、「伝統的な名曲を、当時の伝統に忠実に生演奏で再現できるよう後世に伝承しよう」という仕事は文化芸術遺産の伝承において価値ある仕事ですが、実際そうした音楽活動を仕事にしている演奏家は人数的には少なくプロ団体もわずかです。伝統音楽や20世紀の無調っぽい音楽も研鑽のプロセスのひとつとして学び実習して超えたら、「今の時代ならではの音楽を作って演奏しよう」と考えるのは、多くの音楽家の人たちにとってスムーズな成り行きです。その際、未来へのジャンルのひとつとしてテクノ音楽(シンセサイザーならではの新たなサウンドを指向する音楽)はありますが、未来の音楽ジャンルは「テクノ音楽が全て」になるわけではありません。 人々が楽器を奏でたり歌ったりする楽曲を新たに作る際に、作曲家編曲家側が「MIDI/DTMを用いて作編曲する」というのは、「生演奏する前に、『どのような楽曲であるか』を楽譜と共に試聴ファイルでおおまかにお聴きいただける(≒ジオラマ・模型・絵コンテなどで『おおまかにはこんな感じの出来栄えなんです」とシミュレーションを提示するみたいに、新作楽曲も歌ったり弾いたりしてみる前に『こんな感じの曲』と"試し聴きファイルで聴ける)」→ 試し聴きした後、「演奏仕上げをどう解釈して(できれば生演奏はさすが素晴らしいと言ってもらえるように)演奏家ならではの練り上げ仕込みと仕上げをしていくか‥は、演奏家側の仕事」とご理解ください。「MIDI/DTMの試聴ファイルで聴くよりも、演奏家が生演奏すればもっと感動的!」と思っていただけるように‥演奏技量的に難しい曲もあれば易しい曲もあるでしょうが、「試聴ファイルのほうがマシ」と言われないレベル以上‥というのはひとつのバロメーターです(‥「もっと上手い演奏家もいるけれども、この人の演奏には魅力があって、集客力がある」となればそれで通用するってのが、世の中の実情ではあります)。「指示出しが絶対的になり過ぎないように、『好きなように演ればいい』が未熟さのわがままになり過ぎないように、傾聴する姿勢が厳粛になり過ぎないように、鎮め過ぎず、はしゃぎ過ぎず、気持ちよく会話して心楽しく音楽を演ろう」といったまごころある軽妙なセンスで打合せできるといいですね。 「演奏活動する気はあるけど、(プロ歌手が持ち曲準備でレコード会社や所属プロダクションが作編曲オーダーして演奏家に与えてくれるような‥何百万円かといった金額の)予算はない状態でも、ステキな曲を用意して演奏活動したい」と望む方は、自分でバンド編成やアンサンブル編成の曲を用意できるよう、受講者として作編曲を学びに来ることを検討してみるのも、ひとつの選択です。プロダクションやレコード会社のオーディションを受けて、歌手/演奏家として活躍することをお考えの方も、いよいよデビューの機会に恵まれて「デビューアルバムをリリースしよう」という際に、「全ての曲を用意してもらって、自分は歌うだけ」というのでなく「1曲でも2曲でも、自作の曲を含めたいけど検討してもらえないか」と自分の側から提案できると、その後の活躍の幅が拡がる可能性もあります(レコード会社としては、たとえば18曲用意する際「新作を1曲用意するために、作詞家と作曲家と編曲家へ依頼できる予算を準備し、仕上がりまでのスケジュール進捗に1カ月半。演奏リハーサルはそれから‥」といった仕事の段取りと制作予算を全ての曲にかけなくても、演奏家の自作力作の曲も含めて18曲揃い得るなら「どんな曲か聴かせてよ」と検討の対象にはしてくれるでしょう)。こうした自作の曲揃えのメリットへ積極的姿勢で臨んできたのは、ロックやフュージョンのジャンルです。たとえばバンドメンバーが数人いて、メンバーそれぞれが曲を作れる才能と技量(少なくともコード進行または和声は習得済で伴奏アレンジしてスコア楽譜ぐらいは書ける程度の技量)を持っていて、3~4曲ずつオリジナル曲を作って持ち寄りながら日頃の練習を重ねていけば、作風の異なる曲をあれこれ含めて18曲用意するのはそんなに難しいことではありません。クラシックのリサイタルで「委嘱作品のオリジナル曲をやっと1曲用意して‥」との考えでは困難なことを、インディーズのロックバンドがオリジナルの持ち曲豊富にライブ活動できるのはこうした取り組みによります。 このやり方は、「作曲者と演奏者は立場が異なる」との認識で著作権を捉えている作曲家たちの側からすれば、「持ち曲も予算もないために演奏活動が困難な演奏家の人たちへの(ほんとうは作曲オーダーしてほしいのだけどしぶしぶ‥の)歩み寄り」みたいなものです。(どういう類の"しぶしぶ"か‥をたとえ話で説明すると、「ピアニストと歌手が組んで一緒に演奏活動していたのに、ピアニストが『弾き歌いでコンサートする』なんて言い出したら、歌手は『役割分担して一緒に演るんじゃなかったの?自分で歌うの?‥としぶしぶ』になったりする」でしょう。それでさらにピアニストが「弾き歌いするためには上手く歌えるよう歌唱レッスンしてほしい」などと言ったら、歌手は喜んで教えてくれると思いますか?それでも教えてくれる先生を探すには、大変苦労する。似たようなもんです。だけど「持ち曲があれば活躍できるのに‥作曲を依頼する予算がなくて」とおっしゃるなら「曲の作り方を教えましょう」と対応する‥それって稀有なことなんです。「もし活躍するにつれて演奏活動に多忙になることがあったら、じっくり曲作りしていられなくなるかもしれないので、その際は新作の曲をオーダーしますからどうぞよろしく」とご挨拶して、しぶしぶ‥がこじれないよう人間関係を柔和に保ちましょう。ちなみに作曲家側は、特定の演奏家側が持ち曲を必要としていて新作の曲を提供する場合は、演奏家側から依頼されてニーズに合う新作の曲を書き、作曲料をいただくのが普通で、その曲の楽譜を他の演奏家へ転売したりはしないものです。ただし、その曲が人気高となりアマチュア一般の人々からも『弾きたい/歌いたい』とのニーズが高まった際には、演奏家側とも協議のうえ、『アマチュアにも弾きやすい/歌いやすいアレンジのバージョンの楽譜』を市販するのは珍しくないことです。企業のCMソングなどのように、クライアント(発注者)側が、オーダーする当初から「その曲を(特定の企業団体などが)占有的に用いるつもりで、著作権も含めて売り切りを条件に作曲依頼する」という場合の高額な予算に比べれば、「作曲者・作詞者がその曲の著作権を持ったまま作曲オーダーに応じ、もし売り上げが上がったら少しずつでも楽曲使用料として作曲者・作詞者へも歩合報酬がある」といったカタチのほうが、作曲オーダーする際の作曲料の当初予算はお手頃な金額だったりします((いわば「かなりの専門職なのに日給換算1~2万円の作曲料じゃ安すぎるんじゃない?」‥それでも「当初に作曲料‥だけじゃなく、もしも人気が高まればのちのち楽曲使用料でボーナス的な分配もあるから、なんとか手頃な作曲料でよろしく」みたいな話です))。作曲家側は、新作の曲を仕上げて楽譜を演奏家に渡す際は、ひと仕事済ませて作曲料をいただいてその曲の楽譜を受け渡しするわけで、「演奏力はあってお客様は集まって来る。新曲に恵まれればなあ」という演奏家へ楽曲提供し、演奏家はコンサートの来場者やリスナーに感動して聴いていただけるように向き合う‥すなわち作曲家は演奏家のリクエストや反応が気になり、演奏家は来場者やファンの方々のリクエストや反応が気になるといった流れです。なお、歌謡ポップス演歌では、作曲家側が演奏家を雇用して持ち曲を与えるというカタチはあります)。インディーズのような演奏メンバー各人が曲作りして持ち寄るやり方は、演奏家にとってメリットもあります。自分たちが「本当に好きでやる気になる曲」を、メンバー各人自分が作曲してレパートリーとして取り揃え、そういう曲を本当に好きで集まって来てくれるリスナーの人たちと共感できるのは、好みがぴったり一致して演奏家も心から盛り上がりを実感できます。さらに、もしその人気と実績が上がってくれば著作権の利権的側面の恩恵にもあやかれる‥ということです(ご存知のとおり、音楽の著作権においては「作詞する/作曲する」ことを「著作する」というのですから、「作曲する人」と「作曲はしないが演奏だけする人」とは立場が異なります。基本的に「著作する人の権利を守ってくれる法律」があるわけで、契約により持ち曲を持って演奏活動および録音市販する演奏家=実演家の演奏権なども著作隣接権として守ってくれます。著作権には利権的側面があるので、利益を得られる楽曲については、その曲を作曲した人や作詞した人だけでなく、"その曲を持ち曲として人一倍努力しながら世に知られる名曲にしようと演奏活動する人"は他のマネして演奏したい人々とは立場が異なる‥ということで、契約の対象となるわけです)。 「自分が好む曲でやる気がわくか‥とかいうことはさておき、そつなくこなしますよ、仕事ですから」といったクセがつきすぎてしまった演奏家の人たちにとっては、「本当に好きでやる気になる曲を作って、各々少人数集団で力作力演しよう」と取り組むのは、意志と魂に再び快活さを取り戻せるきっかけになるかもしれません。できるだけ低俗化せず、お高くとまり過ぎず、たんに一過性の"ちょっとした試み"でもなく、柔軟な活動で発展性ある道を上手に探り当てていく姿勢がとくに必要とされる時期には、このやり方は優れていると思われます。というのは、演奏家にとって、「自分たちがとても気に入っている持ち曲がある。こんないい曲を、自分たちの頑張り次第でよく知られた名曲にできるのは功績だ。持ち曲を持ちぐされにせず、活躍して大きな仕事をするぞ」との好みと志向がぴったり合った気持ちで結束するのは、(一過性の試みでちょっとしたライブをする以上に)一貫性ある大きなやりがいになり得るゆえです。((心理学で言われる例(‥実例話らしいけど詳細はうろ覚えでゴメンね)として、「20世紀前半、海外の或る大学で学生美人コンテストが行なわれた。リストアップされた美人候補の中から、参加学生たちは自分の好みの女性に投票するのだが、その際『最も得票の多い美人に投票した人には賞金が当たる』というようにすると、参加学生たちは自分の好みはさておき『最も一般ウケして得票の集まりそうな美人のタイプはどの候補者だろうか』を予想して投票するようになり、『ナンバーワン美人は審査員が決める』ことにすると、参加学生たちは『どの候補者が審査員好みだろうか』を予想して投票するようになり、結果的に『自分が好むかどうかはさておきナンバーワンだろうと予想された候補者』が、最も多くの得票を集めた。そのナンバーワン美人は本当は誰の好みなのか、ひょっとすると誰の好みでもないけれども予想で得票したナンバーワンかもしれない、ということさえあり得る」という話があります。曲を作ったり演奏活動したりする際に「こんな曲、いったい誰の好みなのか。でもそつなくこなしますよ、仕事ですから」なんて気持ちになることがあったら、この話を思い出しましょう。「少なくとも自分はその曲が好きだ」「自分だってその曲好きだよ」と思う人たちのつながりとパワーの集まりはヤル気の元なんです))。音楽関係の仕事を創出しようと思ったら、「とにかく楽譜に忠実に、指示されたとおりに弾けばいいのが演奏家の仕事」とだけ思っていても、仕事は開拓しにくいです。たとえば19世紀の伝統洋楽は、18世紀までに発明された楽器類や、19世紀の時代なりの音楽家の社会的立場や、19世紀なりの外交的文化交流のニーズや公演を実現する興行師の人脈および収益を集める仕事の仕方があって、19世紀に成功して21世紀の今へ伝統的名作として伝わってきています。20世紀には楽器だけでなく録音録画技術も多くのメディアも発明され、21世紀の今、音楽業界の状況も昔とは変わってきていることを再認識したうえで、ご自分のスタンスと気持ちをもういちど確かめてみるといいでしょう。 「伝統音楽で実際必要とされている演奏家の人数は、育成されている演奏家の人数に比べてそう多くはない」、「持ち曲もなく初演経験もない人が、一流演奏家として活躍する例は、伝統音楽以外ではきわめて少ない」、「初演演奏家は、新作楽曲を広めるとともに成長していこうと意欲がある演奏家が好ましい(完璧な上手さよりは将来性優先。奥ゆかしくて出たがらないよりは、ステージ出演もスタジオ収録及びリリースも、意気揚々と出かけていき出たがるのが演奏家として優れた素質アリ)」ということをお考えください。 「本来、演奏家として活動したくて相応の演奏力をお持ちの人たちが、コンサートを行うための資金集めに練習時間を削って、文化芸術支援の助成金集めや寄付金集めに多大な労力をかけている。何がものごとを困難にしているのだろうか?‥『何としても継承された伝統音楽を存続させるために演奏活動するんだ』という人たちは助成金集めもやむを得ないとして、『演奏するのは伝統音楽の曲でも新作楽曲でもかまわない』という人たちは助成金集めや寄付金集めで資金を得ることよりも、新作楽曲を作ったり演奏したりすることでの著作権や著作隣接権の収入で資金を得て、活動することを考えればいかがか?(‥ポップスやロックではあたりまえになっていることです。が、クラシックの人たちは、著作権について無関心でいようとする人が比較的多いのではないか)」とも思われますので、著作権についても多少ここに述べました。じっくりきちんとお読みになれば、一攫千金狙いのライセンスビジネスをしよう‥などといった話ではないことはちゃんとご理解いただけると思いますが、"人々が集まりお金が集まるメディア"にかかわりながらまじめに頑張って規模が大きくなった成果が一攫千金に及ぶ場合はある‥というのも、音楽業界の特性ではあります。「大きなドーム会場で何万人も集めて満席にする全国コンサートツアーを実現したい」というミュージシャンにとっては「多くても100人規模のライブにちまちま駆けまわるのは、こんなはずじゃない‥とガマンせねばならないことだらけ」でしょうし、逆に「多くても100人規模のライブで、ステージも客席も隔たりなく顔も見えて呼吸も伝わるような近さで会話しながら、一緒に音楽を楽しめるのが好きだ」というミュージシャンにとっては「ドーム会場で何万人もが集まるコンサートツアーを達成するには、自分の好みだのマイペースだのと言ってられず、もし目標達成すれば期待含みのノルマも上がってガマンせねばならないことだらけ」ですから、どのような規模で活動するのが快適か‥規模的な適性を考えてみることもたいせつです。「大人気で大富豪になり崇拝されながら孤独」というよりは、「たいして富豪でもないし、それなりに人気があって孤独じゃなく仲間もいて、崇拝というほどじゃないけどそれなりに尊敬し合って音楽活動する」というほうが、生きやすいのではないか‥とは思いますけどね。 「こうでないから一流になれない。ああいう条件がそろわないから一流になれない」との想いに悩みがちな人は、「そもそも一流とは、集客数に比例して、集客数が多ければ多いほど一流なんだろうか。それなりにぼちぼちの集客数で、やってることは一流‥をめざすのは、やりがいありそうじゃないか」ということも考えてみるといいです。曖昧な「一流になれない悩み」を整理してみて、それから「そうでなくても一流になれる道」を検討してはいかがでしょうか。「そうでなくても一流になれる道は、みつけようと思えばあれこれあって、どの道からでも相応の満足感ある目標達成は可能」というのは、総じて「文化的な質の向上」および「頑張ればチャンスに恵まれる状況にはある」ということを意味します。その際、「そうでなくても、新作の曲もなくても、一流になれる道」はどの程度ありますか? ‥いかが思われますでしょうか。 「上手くいったらぼちぼち収益も上がって支持してくれる人たちもじわじわ増えてくる」といった規模で実績を上げていくことはたいせつです。でも、「利益が上がること」ばかりを最優先の目的と考えたり、「どんなニーズにも応える柔軟性」の行き過ぎや「未だ音楽にあまり関心のなかった人々にも共感してもらうこと」が最大の関心ごとになってしまうと、大衆迎合のセンスに低迷して退屈な音楽になりがちです。「未だ聴いたことのない感動的でフレッシュでサプライズのある音楽」を、一般大衆的リスナーの人々はどうリクエストしていいかわからないのです。「それは、このような音楽ではありませんか」と提示していくのが、作曲者と初演演奏者の仕事でもあります。(ちなみに、「"一般大衆的リスナーの代表格のセンス"でリクエストしてくれるのは誰か?」‥音楽のことはそんなによく学んだことがないプロデューサーか?ディレクターか?アマチュアバンドか?歌手か?作詞家か?作曲家か?‥とひととおり、20世紀後半のレコード業界はやってみて、その誰もがみな「"一般大衆以上"の音楽への強い意欲を持っている」ということにあらためて気づいて、それでもまだまだ"音楽のことはそんなによく学んだことがない"フィールドへ大衆迎合的センスを想定して追い求めることへの低迷にはあきあきしている‥との現状もあります)。 「以前なら、CD店では店頭平積みどころか棚の端にさえ置いてもらうのもなかなか難しかった『発売部数1万枚以下』みたいなインディーズ部数規模の、インストゥルメンタルのバンド曲や重奏・アンサンブルの器楽曲、少数派でも通好みの曲の演奏録音も、ネットで市販できる可能性は広がり、いきなり国内海外で評判になるミュージシャンも現れるなど、デビューの敷居は低くなった」ということを、前向きに捉えることは可能でしょうか。20世紀後半のような「特定の歌手の歌う特定の歌謡ポップス曲を、老若男女何千万人もの人々がみな知っている大ヒット」という現象は、今後ひょっとすると「20世紀後半特有の現象であった」と位置付けられるかもしれないのですが、そのような大ヒットのカタチを「普遍性においても採算性においても大成功した、めざすべき事例」と過信しないとしても、昨今メディアの種類は多種多様に増えています。メディアとの相性‥すなわち「歌い奏でる姿の録音録画を多くの人々に見て聴いてもらっていい/演奏した楽器の音なら録音して多くの人々に聴いてもらっていい/録音録画ファイルをパソコンネットおよびスマホへ配信されていい(ファイル市販でいい/ファイル自体は非売品でも宣伝PRで配布するならいい)/録音ファイルならパソコンネットおよびスマホへ配信されていい(ファイル市販でいい/ファイル自体は非売品でも宣伝PRで配布するならいい)/音楽CD盤あるいはDVD盤が商品として物流経由で店に届いて物品として販売されるならいい/テレビの音楽番組で見て聴いてかっこよく人気を博すようめざして演奏活動/FMラジオで聴いた質感優先の音楽愛好リスナーが好んで聴いてくれるようめざして演奏活動」、および「コンサートやパーティやお店でのライブなど生演奏を披露する場では、わざわざ来てくれた来場者の人たちに『来てよかった!また生演奏で聴ける機会があればぜひ来たい』と思っていただける趣向をどう盛り込むか(‥とくに客席100席程度までの小さなライブなら、『いかにしてお客様の満足度を高めるか/いかに感動させるか/いかにサービス精神旺盛に喜んでいただけるか』などといった考え方よりも、『自分たちは日頃からどんなに楽しい気持ちで一緒に集って演奏してるか、その気分を、たった2時間やそこらではほんのちょっぴりだけど、来れば一緒に感じられるんじゃないかな』といった親しみある気持ちで考えるとよさそう)」など、プロ演奏家をめざすならメディアとの相性もお考えになって、演奏活動の仕方および収益性あるリリースの仕方を検討してはいかがでしょうか。その際、多くの名演奏家の方々が演奏してすでに誰もが知っている名曲では、評価の指標もシビアになりがちです。新人演奏家デビューをめざすなら、「個性際立つ新作楽曲を用意して力作力演だ!」‥とお考えになってはいかがでしょうか。(なお、新人公募/新作公募に応募しようとお考えなら、20世紀には一般的だった「作品は主催者に帰属します」との主催者側提示条件は、結局のところ「帰属したからってどうなるの?」というその後の進展の意向がわかりにくく、持ちぐされにされることもないとは言えません。「主催者側は複製権と出版権を活かしてその楽曲の楽譜を市販し、収益が上がれば分配してくれるんだ/複製権と演奏権と録音権を活かしてその楽曲の演奏録音CDを市販し、収益が上がったら作曲者へも演奏者へも分配してくれるんだ」ということがわかるような条件提示をする公募主催者のほうが、後々、どのように楽曲を活かして仕事を進めるかをお考えだと言えそうです)。 一般へ広く門戸が開かれると、さまざまな価値観は交錯するかもしれませんが、「日本の文化政策においても、日本に素晴らしい曲を作れる人たちや素晴らしい演奏をできる人たちが多いのは好ましく、そのデビューの敷居はメディアの発達によって低くなった。作らず歌わず弾かず聴くだけの、受動的な消費者ばかりがやたらに増えてほしいわけではない。供給が雑多に増える中で、著作権関連の収入を上げられるクリエイティヴな実力派の音楽家たちが育ち増えていくのは、国の文化政策においても期待されている」のは当然です。「インパクトあるアイディアと実演力で群を抜けば、そしてクリエイターの作品やアーティストの芸に関して一般の人々やスポンサー企業からお金を集める制度を持っているメディアで公表すれば、一発芸的でもラッキーなビッグチャンスはある」一方で、「弾きこなす/歌いこなすのも作るのも容易ではない‥あの演奏家だからこその素晴らしさを満喫できる曲」は一過性の消費以上にロングセラーを期待でき、長持ちするだけに、プロの持ち曲として価値があります。曲にも、演奏力にも、「多くの人々が容易に見習ってマネできて気軽に楽しい」というレベルもあれば「簡単にはマネできない高度な技と魅力で、すごい!と聴き惚れる」とのレベルもあって、いろんなレパートリーで対応力を広げるとしても、「実力派は、さすが!すごい!と言われる持ち曲ぐらい用意して、マネごとでなくクリエイティヴにやるのが、アーティスト同士の礼節ってもんだろう」というのは、プロ同士ならあたりまえの配慮と心意気です。 音楽産業は「努力して成り立っている産業、創造的で知的で感性を豊かにする産業」であり、腕に磨きをかけ練習を重ね、人的労力や費用もかけて素晴らしい仕上がりにこだわれば、相応に優れた出来栄えになります(できるだけ少ない投資と労力で一攫千金を期待する業態とは、考え方が異なります)。「頑張らなくていい、ゆるくいこう」ではなく「(生意気だと思われないようには気をつけながら、生意気なぐらいの個性と心意気はしっかりと持って)めげずくじけず頑張ろう」、「上手いとか下手とか気にしない」ではなく「下手のまま努力しないよりも、上手くなろうと努力するほうがいい」、「何だってかまわない」ではなく「価値ある伝統から栄えある未来へ続くよき選択肢を採択せよ」、「向上心とか向学心とか意志や意欲とか持たなくていい」ではなく「向上心や向学心を持って、しっかりした意志と頑張る意欲で前へ進め」、求められているのはいつだって"やるなら本気"が本筋です。しっかりした志向性を最優先として、「志向に合わない仕事は断る姿勢、‥その姿勢が精神を強くする場合も多い」と自覚しつつ、進化する楽曲作りをめざすことはたいせつです。(2016年、記載)。 ※ 上記の文章は「歌手・演奏家になりたかったのに‥」との気持ちでいながらどうしていいかわからなかった人たちのために、「頑張りたい気持ちがあるなら今からでも頑張れ!」と勇気づけるために書きました。「まさに必要性を感じる」「役立つ情報でメリットがあると感じる」「せっかく演奏活動するなら、当初は憧れであってもチャレンジしていきたい」との気持ちの方にとっては、読んでよかったと思っていただけることでしょう。「とくに必要も感じないし、関心を持つような話ではない」という方へ対し説得して考えを変えていただこうとして書いたわけではありません。ご了承ください。 こちらの講師は、器楽のインストゥルメンタル曲なら「1980年代後半以後なんだか停滞しているように思われるフュージョンを、近代和声や対位法のクラシカルな音づかいで活かして、(30年前の米国の当時の時流に合った"ジャズとロックの融合"‥へのノスタルジックな趣味とはちょっと異なる、今の時代の日本ならではの特長もあるフュージョンとして)進化させた曲を作れるように頑張りたい。できれば『本場は日本』の新たなステキさがある通好みの音楽を」との志向を持っています。受講に来られた方は、その志向に合わせてもいいですが、ご自分の好きな音楽ジャンルの新作オリジナル曲を作って、できればその音楽ジャンルをちょっぴりでも進化させようとの気持ちを奮ってくだされば幸いです。 歌ありの曲の作曲オーダーについては、陽気ににぎやかに演りたい楽しい曲を、歌詞を見てからご相談でお作りします。(「書きかけの歌詞に曲付けしてくれたら、あとで続きを作詞するつもり」とのご依頼は、「曲が先で歌詞を後付けすることにも慣れている」という作詞家でないと容易ではないようです。「1~3番にサビが付き、さらに2番と3番の間に大サビがあって盛り上がるような曲」は、歌詞もA4の紙1枚では書ききれないぐらい相応の長さがあったりするものだ‥と想定してください)。 |
渡利辺祥楽舎と祥友会の概要についての記述はこちら。 |
「新作の曲を18曲用意して、本気で演奏活動しよう」とお考えの、歌手・演奏家をめざす方々への元気づけのコメント(続き)は、このページの下のほうに掲載してあります。 |
作曲レッスンのご案内ページの脚注2に「付記」として抜粋掲載した「論点ご説明の続き」、掲載あります。 |
「気軽にどんどん曲想が思い浮かび、サラサラっと書いたらすごくいい曲ができちゃった!」といけばいいですが、 頑張りが必要なときには、 「競争心よりも、やりがいが 頑張りの原動力になる」 と思いましょう。 やりがいのほうが、素直に前向きになれて、一緒に力を合わせて頑張る気持ちになれます。 |
「初心に戻る」と思うよりは、「初心の頃とはどのように状況や諸事情が変わったか」を把握し、「今後も通用する経験則/今後はこだわる必要が薄れそうな経験則」や「すでに済んだこと/現在やり続けていること/今後やりたいこと」を整理し、「今から着手すれば自分にもできそうなこと/最適な時期が訪れたら精一杯実力を発揮すべきこと」を理解して、今の時代に適確なように「やりがいを更新する」ことのほうが必要な場合は多い。 やりがいは、当初は意気揚々でも、根気強く続けて習慣になるぐらいなじむとだんだん飽きてくるので、たまに更新するほうがいい。 |
MIDI/DTMを用いる際は 妥当な認識で: 「作編曲するならDTMで」 とは思うし、勉強好きだけど、 音楽を習った経験はない、 ‥という方へ。 |
DTM・MIDIを扱う人は、「各楽器音色は、その各楽器で演奏できることを想定して楽曲を作る」のが、自分も理解しやすく、他人へも「実演するなら、この楽器でこのように演奏すればいい」と説明できる、妥当な考え方です。 おおむね20世紀までは、「オーケストラ曲や合唱曲も歌謡ポップスやフォークのバンド曲も、作編曲する際はピアノかキーボードかギターを弾きながら」という人が多かったのですが、21世紀になり「作編曲する際にはパソコンの楽曲制作アプリで」という人が増えています。たとえばサックスとベースとドラムの曲を作編曲する際、ピアノで弾いてサックスで吹くことを想像するよりも、DTMでサックスとベースとドラムの音色をセッティングして作編曲するほうが、曲想の練り上げや仕上がり具合を考えやすいからです。音楽ジャンルにもよりますが、「電子楽器やDTMは全くさわらず、DTMで作られた曲は一切弾かない」という演奏者は、21世紀になってかなり少なくなっていると思います。"楽器は楽器、人は人"と思って、はまらずに MIDI/DTM を用いたいですね。 もしDTMを扱い慣れてきて、作曲や演奏よりも「DTMで、既存の楽器では鳴らなかったようなシンセサイザーならではの音色を作りたい/録音編集技術や演奏会場の音響設計のほうが関心がある」と思ったら、「『きわめれば音響学、音響工学と電気工学、楽器類の設計、音響機材や音響機器など機械装置の設計プログラミング、レコーディング関連技術』というエンジニアリングの方向性で追求していく進路も考えられる。音響学や音響工学のエンジニアリングは、作曲者や演奏者の活動を妨げずに、録音技術や楽曲配信の方向で活路を見いだそうとしている分野であり、『きわめれば音楽理論・作曲技法・曲作り・演奏活動・文化芸術催事の企画制作運営や宣伝PRなどのプロモーション』という音楽家の人たちの音楽表現の方向性とは異なる。各専門の研究領域があって大学の学部学科も異なる」ということを認識しておくと、むやみに惑わず、得意分野で自分が担当する領域と役割をわかって共栄共存、自分のスタンスでそれなりにできそうな「学びたいこと、上達したいこと、作りたいこと、発展させたいこと」をみつけやすくなります。 2008年頃~2016年現在市販されているバージョンの DTM アプリは、あれこれ機能が盛りだくさんに付きすぎている傾向があるので、「関心があるのは音響関係か?/それとも作曲や演奏か?」を自分でよく認識して、自分がそれに熟練しようと思うわけではない機能にやたら好奇心で深入りしたりしない、と心得るといいでしょう。 MIDI が普及した1990年代は、「MIDI 機器は楽器類。MIDI 機器とパソコンとは別物で、パソコンに MIDI のシーケンサアプリをインストールして、シンセサイザーの電子楽器である MIDI 機器を外付けして音出しできる」というのが、実際見た目にもあきらかで、パソコンと MIDI 機器はインターフェイス経由してケーブルでつないでいたのです。音響スタッフの人たちが録音編集に用いるアプリは、作曲用のシーケンサアプリとは別物でした。 「MIDI 機器は楽器だから、プリセットされている音色(ねいろ)の美しさによってどの MIDI 機器を購入しようかと選び、そのプリセットのシンセサイザー音色は楽器メーカーの人たちが『サウンド合成のプロ技術者が提供する仕上がり感の美しい音色、できました』と自信をもって作り上げたのだろうと信頼して、プリセット音色そのものをあれこれシンセサイザー的にいじるということはしなかった」し、一方で「(1990年代一部のクラブ系テクノサウンドの DJ の間で流行った)LPレコードを逆回転させたりきしませたりサンプリング録音の材料にする‥というのは、精魂込めて演奏した演奏家や録音を仕上げたレコーディングディレクターに対して節操ない失礼な行為だろう、とも思って関心を示さなかった」‥そういう人たちのほうがたぶん多数派だったと思います。「DTM でシンセサイザーの合成音色を作るとか、演奏収録後のオーディオデータを編集してミキシング仕上げするとかいうことへは手を出さない」‥その節操は、音響スタッフの方々への信頼感でもあり、作曲や演奏をする人の側も手がける領域をわきまえて分担制‥というのが気持ちいいと思う人たちは、今でも相当多いはずです。レコード会社のレコーディングエンジニアの人が知っているのは音響技術であり、レコーディングディレクターは音響機材の扱いを知っていて、彼ら音響スタッフが録音編集に用いるアプリはレコード制作会社のミキシングルームなどで音響機材と併せてセッティングされていて、作曲用のシーケンサアプリとは別物でした。現在市販されているバージョンの DTM アプリは、それらが総じて盛り込まれて"サウンド&オーディオワークステーション"といわれるほどの状態になっているので、機能が多すぎるのです(そうした DTM アプリに加えてさらに『ボーカロイド(ボカロ)』も‥とは思わない人たちも、それなりに多いのではないでしょうか。DTM で曲作りするのが好きだったのに、ボカロをインストールして以来、用いないボカロは休眠状態‥という人は、ボカロをアンインストールすれば曲作りを楽しみやすくなるかもしれません)。 音楽著作権は「人による作曲(音楽著作権において、『著作する』とは『作曲する』『作詞する』ことをいい、楽曲を作曲した人や作詞した人が『その楽曲を著作した』というのは当然で不自然さがありません。実質的には作詞や作曲をしたわけではない人が著作権を握ったり、『それは作曲や作詞ではなく、機械装置を発明設計したのではないか』という際に解釈が混乱したりすると、あたりまえの著作権への認識が議論のネタになったりするので、正しく認識しましょう)→人による演奏(著作隣接権としては演奏権がある)→人による録音(著作隣接権としては録音権がある)」と想定して理解するのが順当な考え方とされていて、それゆえ録音権も"著作隣接権"といった扱いです。クリエイティブな仕事で質感を高めて進展させるには、作曲者も演奏者も音響エンジニアも「力を合わせてともにいい仕事をしよう」といった感覚がたいせつで、「都合よく支配して誰が誰の言いなりになり、誰が利益を独り占めするか」といった偏った運びになってしまわないよう、各立場でできるだけ心がけることです。「自然の音などをまずサンプリング録音してから、それを音素材として用いてコラージュ的に編集する」などといった音遊びは、「人が作曲した楽曲がまずあって、人がその楽曲を演奏してこそ、著作権や演奏権がはっきりした楽曲の録音編集制作ができる」といった音楽著作権の考え方を混乱させるので、楽器メーカーも音響機器メーカーも音楽出版社や作曲家や演奏家もそうした音遊びへはあまり本気になって関心を寄せたりはしない、と知っておきましょう。 また、「作曲できるように上達しよう」と思うなら、「コード進行や和声や対位法は作曲する人たちにとって、伝承されてきたたいせつな智慧であり、"自動伴奏機能"などという紋切り型のカタチでアプリに組み入れるべきではない」との作曲する側の意向へ、配慮がある DTM アプリを用いるのがよさそうです。一部の初心者向け DTM アプリには"機械的にコード伴奏付けする機能"が付随しているものもありますが、すでにお手持ちのアプリにそうした自動伴奏機能がついている場合はその機能は用いず、自分で和音を考え工夫して作編曲できるように学びましょう。たとえ話で言うならば、「水泳で上達しよう」と思う人が、初歩的な段階では「まず慣れるために浮き輪を付ける」場合はあっても、いつまでも浮き輪を付けて泳いでいてはクロールも平泳ぎもできず上達できない‥みたいなもんです。 世の中には、「先端の音響技術と、音響機材や電子楽器の研究開発を、未来へと進めていこう」と日々励んでいる学者・研究者・専門技術者の方々もいらっしゃるでしょうが、 渡利辺祥楽舎のレッスン・セミナーは、「(音響工学の専門的な理論よりも)音楽理論・作曲技法・曲作り、ライブ演奏活動のほうへ関心がある」と望む方に適しています。 音響学・音響工学は理工系の大学へ進学すれば学べます。世の中には、楽器の設計制作を学べる専門学校や、音響機材を扱うPA・レコーディングディレクターを養成する専門学校もあります。音大芸大には作曲や演奏の学科専攻があり、音楽専門学校にはポップスやロックのバンドや歌手・芸能人育成に実績を持つ学校もあります。各校とも2~4年、さらに専攻科や大学院へ進めば最長9年の専門的な学究カリキュラムをもっていて、学費も数百万円~1千万円以上かかります。「趣味で音楽が好きになって、楽典とコード進行を学んで、気軽に生演奏しやすい程度の小編成のバンドや"歌+ピアノ/ギター伴奏"などの曲作りをして、結婚披露宴やライブハウスのパーティで友人仲間とともに生演奏」というぐらいのことなら、弊舎のレッスン・講座程度でも月々1万円前後の受講料でうれしがって学んで手がけやすいです。 なお、理工系の音響工学か音響装置・録音装置の技術を知っているエンジニアの人たちも、「楽典ぐらいあたりまえに知ってるよ。だって『440ヘルツのラはアルファベット音名では a で、真ん中のドより短3度低い』とかいう音響学の最も基礎的な事柄を勉強する際にも、楽典も知らず音名も音階もチンプンカンプンじゃ理解できないでしょう」との認識を持っています。「楽譜なんか読めなくたって‥ではなく、楽譜は読み書きできる方がいい、楽典は知っているほうがいい。楽器はぼちぼちでも練習して弾けるようになるほうが、DTMアプリで曲作りする際にも何をどうすればいいか理解しやすくなる。‥で、独学独習による限界や思い込みを乗り越えようと思ったら、習いに行くほうがいい。なぜなら、音楽が思い浮かんだ際に、それを幻聴だと思って畏れたり惑ってそそのかされたりせず、「楽典も知っていて楽譜の読み書きリテラシーもあるし、コードや和声など曲作りの方法も学んで知っているので、曲想のアイディアを楽曲としてクリエイティヴに曲作りすることができる」というのは、人間の持ち得る優れた能力だからです。曲作りの上達をめざすなら、演奏者の人々も喜んで歌ったり弾いたりで生演奏できるような楽曲仕上げをめざして腕磨きするほうが、やりがいもあるし人づきあいも増える」とお考えください。 さて、奇妙なはまりかたをしないために、少し書き添えておきます。「各楽器の特徴や担当音域などよく知らない…なら、各楽器について管弦楽やバンド編成など含めて学習するほうがいい」「アコースティック楽器にはないシンセサイザー独特の音色の場合、もし生演奏するなら、音楽キーボードやエレキギターで生演奏可能だ…という範囲を超えて理解不能な感じのするような使い方はしない」と心がけるほうが、快適に曲作りできます。 (「音楽を、料理や食べ物・飲み物と関連付けて処理しようとする人は、『味覚は味覚、聴覚は聴覚』といった能力を精鋭に磨きにくいのかもしれず、音楽理論や作編曲技法を理解できにくい傾向がある」ようで、正しい解釈ではありません)。音の高さ・長さ・強さやリズムや楽器音色などをちゃんと聴き分けて、弾ける/歌えるように、ソルフェージュのトレーニングをすれば、「聴覚」の能力は伸ばせます。 作曲したけど、まだ実演していない曲は、「手元に楽譜か楽曲ファイルがあるだけで、演奏者へは渡していない。その曲を譜読みして弾き慣れている初演演奏者は未だいない」というのが事実…というだけのことです。 「実演しようとしたら、このような指づかいでこのように弾こうとしても、相当腕達者な演奏者でさえ弾きにくそうだから、こう手直しして、メロディーの流れと音の響きもこう協和させて解決すればスムーズだ」などと練り上げて、「よし、出来た!」と曲を仕上げれば、あとは書き上げた楽譜を演奏する人へ渡して、それから先は演奏する人が担当する仕事だと思って任せて信頼すればいい(ソロの曲を自分で演奏する‥というような場合ばかりではありませんから、バンドで演奏するならバンド仲間の奏者へも、伴奏付きの歌なら相方へも、ちゃんと譜読みできる楽譜を渡しますよね)。演奏する人は、楽譜を読んで弾ける/吹ける/歌えるトレーニングを積んできているのが普通ですから、譜読みできるようちゃんと書かれた楽譜があれば、演奏できるのです。「フルートの音色のパートはフルートで実演、ギターの音色のパートはギターで実演、ピアノの音色のパートはピアノで実演、シンセサイザーキーボードで出せる音色は音楽キーボードで実演」‥そう思うのが普通にわかりやすく適している‥というように DTM/MIDI は音色設定されているのです(「それ以外の考え方をしなければDTMを扱えない」というようなジャンルの音楽/たとえばゲームの付随音楽の制作などに関心がある方は、弊舎ではなく、その関心に合う他社・他のスクールの講座へ行くほうがいいです)。 演奏する人たちは、上手く演奏できれば人々を感動させることもできますし、少々弾き間違えても「頑張って弾いてたのはわかったよ、楽しかった」と言ってもらえるぐらい、お聴きになる人たちは優しい…それが実演の場での事実です。 避けたいリスク対策は…まず、演奏する人から「こんな楽譜では、譜読みしにくい、演奏する気になれない」と言われないよう、ちゃんと楽譜を書けるようになりましょう。 「自作自演するから楽譜を書かなくたって、覚えていて演奏できればいい」と思っている人は、そのままの考えでは、対外的にちゃんと示せる楽譜を書くことができるスキルが身につかず、「これは過去に作って仕上げた曲、これは以前からあたためていて今後仕上げたい曲」といったケジメがつかないと多作しにくい傾向にあります。自分の作った楽曲作品を「自分が自演した時の録音録画でしか対外的に作品として示せない」「1曲ずつちゃんと作って仕上げた‥という実感がなんとなく持ちにくく、練り上げの経験が足りない」という曖昧さから脱却するためにも、「自分の作った曲の楽譜は自分でちゃんと書ける」ようにしたほうがいいです。 …「そのように考えるには、楽典・音楽知識や作曲技法をよく知らない。スコア楽譜を手書きで書いたこともない」なら、「学んだほうがいい音楽知識や作曲技法はちゃんと学習する」のが先決です。 |
読んでよかった! 上級編 |
---|
バンドの作編曲を勉強して、バンド曲を作る人はけっこういます。クラシックのソナタ形式を勉強した音大芸大生は多いはずなのに、バンド曲に比べるとソナタの曲を作る人が激レアぐらいに少ないのは、なぜですか。 音大芸大生には「ソナタ形式を勉強した‥とは言っても、演奏する楽曲についての教養知識を持つために勉強したのであって、ソナタ形式の楽曲作りを習作したわけではない」という演奏系専攻の学生/卒業生も多いです。 作曲系では、クラシック音楽の勉強を進めていくと(大学在学中に限らず中学生や高校生でも)たいてい学習の途上で、たとえば「ソナタ形式の曲を作ろう。モーツァルトだったらこんなソナタ、ベートーヴェンだったらこんなソナタ、あるよね」と見習って習作してみるのはよくあることです。が、それは学習途上の練習として習作するなら許容されているのであって、「モーツァルトに成り代わって、モーツァルト作と称する贋作偽作の曲を作る」みたいなことが目的ではないのはあきらかです(‥なお、習作段階の曲でも発表の方策がないわけではなく、たとえば「モーツァルトに捧げる〇〇」というような曲名を付けて、「これはモーツァルトの曲から感銘を受けて作った曲だ」と表明し、習作した作曲者名も記すことにより、むやみに贋作や偽作もどきとはされない例はあります。そうした習作をする際は、「あの憧れの曲と同じような曲が作れたらいいなあ」と魅了されすぎず((‥というのも没個性的に同じような曲を作るのはクリエイターとしてほめられたことではない))、「あの曲程度ならチョイチョイと作れるさ」となめてかからず、敬意は持ちながらも自分は自分の曲作り能力を磨きたいと望む姿勢がたいせつです。((ちなみに、モーツァルトをこよなく愛する人々やその筋の音楽評論家から、ものまね/きわもの/まがいもの扱いされたり酷評されたり無視されたりするのでなく賞讃され満足して歓迎される出来ばえというのは、相当ハイレベルです。新人の人たちがその試練にめげないように、コンクールで登竜門のチャンスを設けて試練を軽減し活躍の場を与えていこう‥ということでも、本選ではそう敷居が低くなると思われません。モーツァルトやショパンを好きな人々は世間にそれなりに多いのに、その好みによく合う新作楽曲が世の中をにぎわせ評判になったりしないのは、作れる人がいないからではなく、魅了され信奉する気持ちでモーツァルトへたいせつに思いを寄せたい人々が、そうしたにぎわいや評判のガヤガヤを寄せ付けたがらないからです。一方、「モーツァルトをこよなく愛する人々は世紀を超えて依然として多いので、むしろ、まるでモーツァルト作だ‥と彷彿とさせる新作の曲は根強いニーズがあることを大いに肯定しよう」とされる場合、伝統芸能や伝統工芸の匠ならば『〇〇屋本家 第〇代目モーツァルト衛門』というような継承のされ方になるのでしょうが、それはまた別の話です)))。 で、「今の時代にソナタの曲を作るなら、モーツァルトの時代様式にはなかったこんなモティーフやこんな和音づかいで‥と試みていくと、それはソナタ形式と言えるんだろうか、あえてソナタと言って古典的ソナタの様式や概念との間で軋轢にならなくても、ほかの曲名を付ければいいじゃないか」ということにもなります。すると、「あのオリジナル曲は、ソナタ形式も勉強して習作トレーニングをしたゆえに作れた曲なんだ」ということが"わかる人たちにはわかる"けれども、「露骨にソナタと称してるわけではない」みたいな、ちょっぴり通好みのオリジナリティある曲に仕上げたりすることになります。そうしたオリジナリティのある曲なら、モーツァルトやベートーヴェンに気おくれせずはばからず、「これは自分が作曲したオリジナル曲だ」と胸を張って作曲者と称していいのです。 その際、世俗の過酷な競争を通り抜けて「自分だけが活躍できればいい」という考えが絡んでしまった人はその考えに固執せず、本来味方である人たちへ愛憎まじりで攻撃的感情の対象にするような認識錯誤をしないように心がけることによって説明を面倒がらずに同志仲間を広く増やし、かといって「誰だってみんな楽々できちゃうもんね」みたいな軽はずみな線引きで判断せず、寛容な気持ちになったからと言ってぶしつけでずうずうしい者にむやみに門戸を開かず、互いの尊重と敬意を持って心楽しく親睦をわかち合えることのたいせつさを説き、「自分たち仲間には、さまざまな境遇でそれぞれに得意なことがありさまざまな考えを持つが、それが強いて画一的にされるのでもなく発展ある望ましい将来へ向かって協力し合っていこうとの意志では同じ未来、望ましい未来を志向している。自分だけでなく、それぞれ得意なことでちゃんと自分の権利を自覚して、その権利を強気で振りかざすほどの必要はない状況のほうが居心地よく表現活動できると知っていて、さまざまな場で活躍していく仲間たちがいっぱいいるのはうれしい」と思いましょう。 とくにクラシックの器楽曲は、その段階まで学習と習作を積み重ねて自分なりの作風確立をめざすには、「ちょっと半年受講して、ほら1曲できちゃった」というような学習プランでは簡単にいきません。歌の曲は、歌詞とメロディーの組合せで「他にはない、これまでなかった曲」は作りやすいので、器楽曲に比べると学習年数が少なくてもオリジナル曲は作りやすいです。 |
もしも‥との、極端な未来的仮想のエンターテイメントの話ではありますが、「人工知能がどんどん進化して、楽曲はコンピュータが自動制作して市場に供給し、歌手もボーカロイド、楽器のバンドもアンサンブル楽団もシンセサイザー、人間は市場で販売されているそれらの楽曲ファイルを購入して聴く消費者の立場」‥なぁんて新ジャンルをめざしている人たちも、世の中には存在するでしょうし、その際「人間は、受け身の聴衆や消費者の立場でいいのだろうか」ということも「基本的人権の範囲」についてもたぶん議論されるはずです。(人工知能を持つ人形型ロボットにも「"基本的人格創造隣接権に伴う基本的人権"のような権利を認めたうえで、そうした人形型ロボットが楽曲を著作した際には、その人形型ロボットとそのロボット設計製作者が、共同して作ったその楽曲の著作権を持つ‥ということにするか」なんて議論はなかなか簡単ではなく、ボカロ好きの皆さんがいつかそうした法律制定が国会で議論されて可決され施行されるのを待ちながらおじいさん/おばあさんになったとしても、簡単に結論には至れないような事柄でしょう。だから、「生まれ変わったら機械類やロボットになりたい‥なんて考えは持たないほうがいい。生まれ変わりたいなら、基本的人権を持っていることが確実である"人類"に生まれ変わろうと思うほうがいい」とは付記しておきます。 なお、コンピュータメディアが網羅され発達した社会において、それぞれの人間が自分で物事をちゃんと考える思考力を持つことはとてもたいせつです。しっかりした思考力を持とうと思ったら、「自分が知っている情報のほとんどすべてはコンピュータメディアを通じて知ったり学んだことばかり」というのは個々の人間にとって好ましいとは言えないわけで、たとえば音楽に関して言うなら「楽典や音響学の知識を初めて知ったのもDTM/MIDIアプリを通じて‥だったし、ギターやサックスやドラムなど管弦打楽器にはさまざまな種類の楽器や音色の相違があるのを知ったのも、ピアノの鍵盤の並びを覚えたのも、DTM/MIDIアプリを通じてだった。楽器を弾く練習も、伴奏付けやメロディー作りも誰か他の人からレッスンで学んだということはなく、独学独習。習作してみた曲も、近頃人気のヒット曲も、自分がよく聴く好みの曲も、全てコンピュータの楽曲ファイルでコレクション」という場合、ご自分の好む音楽の根拠のほとんど全てがコンピュータメディアに依存するような状態に偏り過ぎです。経験を経て思考力を持ち、自分は自分の作風や芸風を表現しようと思えば、その偏り過ぎ状態は「個性的であろうとしながらも、他者と同じような没個性的横並び状態にならざるを得ないのではないか」と気付くことでしょう。「コンピュータとネットが全ての情報を教えてくれるから、独学独習で充分‥との考えに偏り過ぎないように」というのは、そういうわけです。(人間の職業名を、機械やアプリの名称として名付けた機械装置類やアプリケーションソフト類は、人間がそうした依存状態にならないための配慮が未だ充分だとは思われないので、とりあえずは敬遠するほうが無難かもしれません。弊舎が「DTMの楽器音色は、リアルに演奏しようとすれば、ピアノ音色はピアノを、ギター音色はギターを‥とその楽器を実演することを想定すればいいので、曲作りに用いていいでしょう」とは言うものの、「歌唱を想定したボーカロイドで歌の曲作り」に現状ではあまり積極的になれないのは、「怖いもの知らずのチャレンジ精神でボカロアプリを開発した技術者の人たちは、ハマらず耽溺せず混乱せず無難で安全に世の中へ出して音楽好きの人たちに用いてもらって大丈夫‥だと確信できる段階まで至った状態で、そのアプリは製造市販されているのかな」ということへの安心感があまり充分ではなさそうだからです。ゆえに、弊舎ではボカロアプリの導入を奨励しているわけではありませんが、弊舎とは関係ない所でボカロアプリを用いたい人がいても拒んで禁ずるわけでなく「関与しない」とのスタンスです)。 ------- もしも‥ですが、「機械が自動で機械的に作詞や作曲編曲するから、作詞家も作曲家も編曲家ももう要らない。DTMアプリで楽器音は出せるから楽器奏者ももう要らない。歌唱はボカロアプリがあるから歌手ももう要らない。楽譜も要らない、楽器も要らない、人間は消費者として聴けばいいだけ」などといった極端に偏った方向で文化的社会動向が扇動されるようなことがあれば、その際には「クラシックもロックもジャズもボサノヴァも歌謡ポップスも演歌も伝統邦楽も、ジャンルの垣根など超えて『人間の、人間による、人間のための音楽』を推進しようとする巨大派は、みんなで結束してお友だち!」となるであろうことを、理工系の方々へ多少の警告を込めて書き添えておきます。(2017年1月20日)。 ------- たとえば「人間が楽曲を作るのは『作曲』という。人工知能や機械装置が自動的に楽曲を作るのは『合成造曲』という」「自分が作曲の知識とテクニックと表現力を持って楽曲を作るわけではなく、プロデュースやマネジメントする人のことを『作曲家/作曲者』とはいわない」などとして、『作曲』の概念が著作権の解釈においても混乱しないように、ちゃんとした認識で打合せしたり語り合ったりできるようにすることが必要な時代です。音楽業界的には、「一般リスナーの気持ちに精通して歌詞を書ける作詞者」だけでなく、「音楽理論や作曲技法を解説できる人」も「音楽史や様々なジャンルの音楽の特質を解説できる人」や「音響学と楽器や機械装置の構造を解説できる人」や「音楽社会学やメディア論の考え方と業界の仕組みを解説したり議論できる音楽ジャーナリスト」も、そして「ちゃんと正しく認識し理解してさしつかえない音楽用語や音響用語の造語作成者」も必要とされている時代なのです。MIDI 用語や MIDI 機器/アプリの取扱説明書には、用語の定義づけが充分に検討されておらず「その用語はこういう意味だ」と信じすぎてはいけない用語が多々あるのも、造語の必要性の一端です。 「世の中、高度に機械やメディアが発達すれば、人間たちは単純作業や受け身の立場から解放され、もっと創造的で表現力豊かに楽しい仕事ができるようになる」というのは、1990年代のインターネット普及黎明期からの公約です。その「もっと創造的で表現力豊かに楽しい仕事」とは?‥芸術的な仕事です。機械設計開発の専門家の一部には、「もっと創造的で表現力豊かに楽しい仕事」の行き着く先に「『機械で自動的に作曲や編曲や演奏ができる人工知能搭載のロボット』を設計開発するのが創造的で楽しい仕事だ」と思う人がいたとしても、それによって「自動作曲・自動アレンジ・自動演奏をしたがる派とは、自分は違う」という人たちが「もっと創造的で表現力豊かに楽しい仕事」を自制して粛々と大人しくしていなければならない‥なんてことはあり得ないのですから、創造的で表現力豊かに楽しく曲作りして演奏していいのです。文化芸術は、作曲は、「単純作業の労働から解放された人間たちは、ゆとりを持てたら何をしようか。そうだ!芸術だ!」と考えていいことがらです。 世間的に「(商品の)消費が増えれば、景気は向上する」という考えよりは、「創造的で芸術的センスの能力が高まり人件費のかかる仕事が増えれば、その人件費を所得として得ながら能力を磨き伸ばせる人々が増え、経済的格差問題への改善策の一助にもなり、景気は向上する」という考え方(当初からそういう主旨だったはずで、人件費を節約できる産業を推進しようとしたわけではないでしょう)、‥すなわち「人件費をできるだけ省き、創造的でなくても一律に大量生産できる仕事を増やして、大量の商品の消費を促しても、成熟社会においてはそれほど景気は向上しない」「いきなり世界的にインターネットが普及した1990年代後半~2010年頃の時期は、『とにかくスピード感をもって改革する必要がある』ということへ人々は躍起になった。2017年現在では『将来的にどのような世の中にしていきたいのか。その将来のためには、改革は穏健に(混乱するほど急進的でなく)じわじわと理解し合いながら適宜な賛同をもって進められていくほうがいい』と考える人々が増えているように思われる」「創造的で人件費のかかる仕事は、世のため人のため成長を推進する価値がある仕事である」との考え方で景気向上をめざしていいのではないでしょうか。 はっきりしていることは、「我々人間は『人間が働き仕事をするほうが、機械装置だけに任せておくよりも上手くいく。人間は必ず必要』という仕事や職をつかんでいくこと」です。 ------- 巷の音楽教室では「JASRACへお金を払うなら、『演奏料』などという名目でお金を払いたいわけではなくて、『JASRACの職員の人が、音楽教室へわざわざ出向いてきて、著作権の知識を必要とする講師やスタッフや作編曲中習者へ対し、著作権についてまともな考えできちんと理解できるように研修してくれる』ということへお金を払いたい」。弊舎・筆者はそのように思います。 (2017年5月30日、追記) |
今も昔も在り続けている技芸の課題: ------- ●「感動には、享受し共感する規模の大小だけでなく、純度や質感の差異もある」ことについて: 感情の質感の差異には、日常的にわかりやすく言えば「とてもいい感じ、気持ちいい」などの感じもあれば、「気色わるい、うんざり」などの感じもあります。「非日常的な感動・感嘆・感激」は、「いつもの日常的な気持ち」を超えた感情で、形容詞で言い表すと「素晴らしい、とてつもない」などがあります。もう少し異なる角度から差異を測ると「崇高な感じ/華麗な感じ/いとおしい感じ/清純な感じ/おごそかな感じ」など。「かわいい/イケてる/ダンディ/キュート」とか「ほんわか/キャピキャピ/ノリノリ」などは日常性に近い感じで、時代の気分に応じて流行りの新語もどんどん生じたりしますが、人間、すごくあまりの素晴らしさに大きな感動を覚えたりすると、「とてつもない素晴らしさ」に相当する新語はそんなにどんどんあるわけでもなく、「キュートだね/キャピキャピのルンルン気分」とかいう感じのレベルを超えた感動のレベルがあるんだなあ!‥と実感したりするわけです。 感受性のセンスを磨くには、「純度の高い高貴で聖なる感情もあれば、雑味が多くで俗っぽいけど人気を引っぱるような感情もある」ということに気付いてみれば、世情の様々な発見があるかもしれません。聖なる感情ばかりでは世渡り下手になりかねませんし、低俗な感情ばかりでは「芸術性の追求って、そりゃ何だ?」と感性の質感よりは実益や安易な享楽の興奮に偏りがちです。(料理でたとえるなら、「高級ホテルの割烹の澄んで繊細に香り立つお吸い物の味」もわかるし「油ギトギトののれんがかかった中華料理店の、長い行列で並んでも美味さぞっこんのギョーザの味」もわかる‥というほうが、生き方に幅がもたらされます。どちらの店の料理人も、それぞれ磨いてきた腕前には自信を持って料理を出しますし、お互いに敬意を感じ得意な腕で共栄共存していくことを願っています。どちらの店が行きつけであろうと、人々は気分や好みやTPOに応じてどちらの店へも気持ちよく行ける、侮ったり卑下したりねたんだり‥なんて感情ではないから美味な料理をおいしいと味わえるのです)。感情表現には、陽気で楽しい感動ばかりではなく、迷いや苦悩や恐れなどもあるでしょう(そうした煩悩が多い時期にはそのままでは「頑張ろう」とは言いにくいので、洗練し軽やかな気持ちになることが優先課題となります)が、修業を積むにつれて「"素晴らしい!"へと質感のいい感じを磨き高め、『そのまま頑張っていい』気持ちを常態化していこう」というのは芸術の本筋です。意志の強い精神力で芸術求道を貫く‥といった姿勢は、だんだんに身についてきます。 「創造的で素晴らしく新しい時代を感じさせる表現力を発揮しよう!科学と技術の進化に伴って、時代的に変容していく社会状況へ、快く楽しく美しく調和可能な接点を見つけて、秀逸な作品を作り、共感と賞讃を得られるよう志そう」というのと、「情操教育で、喜怒哀楽の情緒を衝動や迷妄耽溺の不安定さに任せず、個々を尊重しながら気持ちのいい人間関係を築けるよう、心豊かで穏和で礼節あるコミュニケーションを心がけよう」というのとを、上手に精神的バランスとりながら芸術表現活動するのは、今も昔も変わらない芸術的な課題です。二者択一だと思うと、先鋭的でも奇抜で過激な表現になったり、恭順でも創造性に乏しい停滞感に飽き飽きしたりするので、上手に芸術活動しましょう。「ときどきコンサートに行ってノリノリの気分や素晴らしい気持ちになれるのは、非日的なパー!といきたい"つかの間の娯楽"気分。普段の日常の気分とは違った一過性の気分」と思えば「娯楽に面倒くさい求道精神なんていらない」と思いがちでしょうが、それ以上にわざわざ音楽レッスンに足しげくかよって来るのは「前向きに楽しい気持ちで生きるチカラを持って、めげずに自分の特技を磨いてときどき誇れたりなんかする日常は、普段からいい気分だ」と知ったから。「パー!とやるお祭りのため、日頃から寄り集って懸命に練習を積み重ねるのもまた、"やりたいことをやる"からこその活力がわいてきて、普段の生活が活き活きと楽しい‥と知ってしまった」みたいな感じです。 「闘争を超越した友好的なスポーツ」や、「激情を超越した音楽表現活動」は、平和的で豊かな文化的社会にほどよく快適な調和をもたらすよう作用します。 ------- ●「伝統の再発見だ!」との気持ちになり「伝統の伝承には整った教育が重要だ」との関心が強くなった際の、ちょっとした心得: 伝統についてひとこと付け加えるなら、「伝統というのは何もしなくても維持存続できるわけではなく、現状維持するだけでも相当の労力と費用がかかり、それだけで手いっぱいだと変化する世間との疎通や対応が後手後手になって(世間からは伝統の)存在意義さえも危ぶまれる事態になりかねないので、世間的に柔軟性を兼ね備えた伝統が、今の時代~後世へ存続できる」ようです。たぶん、「江戸幕末期以来、『先代から受け継がれた価値観や技をそのままに、先代と同じやり方をして、現在に残り存続している伝統文化や伝統産業はほとんどない』」「いつも先代とは異なる今の時代の状況に直面して、先代とは異なる方法や応用力で、新たな解釈や新たな有用性を見いだすことに力を注ぎ、かつて伝統の先代が経験したことのない新たな課題に応じながら、新たな未経験の多い今を生きることになる」「実例から学べるのは、過去にすでに形成された事柄や過去の産物についてであり、現在において実現力ある事象には役割担当があり、未来の予感から学べることは、未だカタチになっていない閃きの勘とともに訪れる。未来への閃きと勘は、『できるだけ好ましく平和的・協調的で、喜びや幸せを感じるように』との志向性をたいせつに思うことで、現在~近未来を好ましく方向づけようとの願いと希望と期待が増す」ということです。 未来への永続と将来的発展を望めば、「安易な娯楽よりは、芸術的求道精神をそなえた教育」との関心が高まるのは、人の世の常です。「誠実に、教える価値あることを教える教育を」と志せば、自分の得た経験則にとどまらず、「伝統」へ関心が向きます。ところが、伝統には「その昔の時代状況では、その程度にしか出来得なかったこと/および、その程度にしか出来得なくても、当時なりになんとか決着や成果に結びつけようとして無理したこと」が、しばしば「未来へ委ねたい課題」として絡みついています。しかも伝統には、無理解に対するうんざり感で「もう終わりにしよう」といった感じが付随している場合さえあるので、警戒が必要だとピン!と気付いて深入りせず逃げる機敏さだってたいせつだったりします。「"終わり"ではなく、"済ませて次へ、その先へ"」と前向きに意欲とやる気を奮い、未来への永続と将来的発展を望めるようにしていくのです。 「伝統は不変不滅」というよりはむしろ、「伝統は不変と可変を柔軟に伴えれば不滅」です。伝統のエキスは、「今の時代状況においてならやっと出来るようになったこと」に応じて、解きほぐして再び新鮮で柔軟な智慧にして、わかるように未来へ伝えていく‥「直伝:世代を超えて人から人へと伝える教育」は、それゆえ知識の継承だけでなく教える側と教わる側との間で解釈や理解の度合いに柔軟性があり、信頼関係や精神修養をたいせつにするのです。 ------- ●『機械装置の設計開発製造の技術』と『表現力の技』が接近するメディアの、芸術心理的作用について: 芸術の道は、「創造的で優れた技のある美しさに、素晴らしい大きな感動を呼ぶ」ことができるようにと、腕磨きし精神力を鍛えて修業を積んでいきます。メディアが発達した現代、「古代の村の集落で、絵の上手い人が壁画を描いたことに村民みんなが感動し、音を鳴らせる道具は一緒に合奏すれば美しい響きで感動できることを知り、構造的な建物を建造したことに隣村の村民たちも感動し敬意を持たれて、お祭りと交流の規模が世界観を広げていった」「室町時代の武士たちは美しい茶碗に感動し、能を舞い、戦いよりも素晴らしい気持ちで人間は生き得るものなのだ‥と悟って、平和をめざせばより素晴らしい生きがいがあり得ることを知った」「江戸時代の町民は印刷技術の普及に伴い、浮世絵や瓦版を手にして『次の新作は、今人気の話題は』と、絵や情報には(描き写す技の巧みさや必要事項の伝達というだけでなく)新作の連発に"今の時代をトキメキながら生きている実感"が伴い得る‥そういう種類の感動で共感できることを知った」‥といった歴史的経緯を経て、録音録画技術や通信/放送が登場した20世紀以後、昔とは比較にならないほど広大な規模で「人間は素晴らしい大きな感動に共感し得る」ことを知りました。 「技には、『機械装置の設計開発製造の技術』と『表現力の技』とがあり、その双方が接近しすぎる際には留意すべきことがある」ということについて、少し説明しておきましょう。「楽器や音響装置の設計開発製造の技術」は前者の技、『楽曲作りの技や達者な演奏の巧みの技』は後者の表現力に関する技、というのはおわかりでしょう。(そのまま音響と音楽を例に挙げて説明すればいいのですが、複雑で各立場の言い分などが多様にありそうなので、話を簡単にわかりやすくするために、上記の「昔の浮世絵と印刷技術」を例に推測してみましょう)。 ◆たとえ話の序章:昔むかし或るところに、印刷機を設計開発する才能に秀でた技術者がいました(=前者の技の達人)。「見事な印刷機を作り上げたが、この印刷機を用いて何を印刷すれば、産業の発展が期待できるか」と日々考えていました。一方、絵を描く才能に秀でた絵師がいました(=後者の技の達人)。印刷機技術者は「自分が開発した印刷機なら、あの繊細な美しい赤や青の色も、ダイナミックな線の太さや細かく描かれた微細な線も印刷可能だ」と意気揚々です。絵師は「自分は風景画も人物画も描くのが得意だ。自分が絵を描けば、『なんて上手くて素晴らしい絵なんだろう!』と人々は賞讃してくれる」と誇らしげです。「ワタシは印刷機の技術者≒エンジニアです」「ワタシは絵師≒コンテンツ制作者です」と、お互いの持つ巧みな技で各々分担をわきまえながらウインウインの仕事をめざして、共同プロジェクトがスタートしました。 ◆たとえ話の本章:さて、たくさんの絵を印刷していくうちに、「描かれている被写体は、野原の風景よりも人気歌舞伎役者のほうがよく売れる」なんてことにも気付くようになり、打合せで企画を練ることが重要だと認識するようになりました。絵師があまりに美しい絵を描くので、それを満足に刷り上げ見せることをめざして印刷技術も進化発展します。町民たちも「この絵のこの役者の表情はなんともいいねえ!」ということだけでなく、「あの印刷所はこんな線もくっきり印刷できる技があるんだからすごいじゃないか」とマニアックな話題でも盛り上がり、同業他社もあちこちに登場して「あの印刷所にできることが、ウチでできないはずがない」と競合も激しさを増します。技術者も絵師も「何かいいアイディアはないか」と企画ネタを考えるのが日常になるぐらいですから、世間では「今をトキメク最先端技術と芸術表現はコレだ!」との機運が漲っています。「町民たちが、未だ行ったことのない地域の風景を、旅人の姿と重ねて、いつかあちこち旅をしようと思い立った時の旅行ガイドブックにもなる、宿場町や街道のシリーズ物の絵を印刷して出そう。遠方各地から参勤交代や旅で江戸にやって来た人々は、この絵を見てしみじみと故郷を思い出すのだ」との企画は大ヒット。「風紀を乱さず、質素倹約を」とのお上のお達しが出た江戸時代後期に技術者と絵師が苦肉の策で企画アイディアをしぼり出したたまものでもあったのです。 ◆このたとえ話にありがちな行く末は?:①印刷機技術者が「どんな絵を印刷すれば売れるか‥のノウハウはもうわかった。一流芸術家になってしまったあの絵師に高いギャラを払わなくても、ヒットしそうな絵は売り出せる」と安ギャラで凡庸な絵師を集めて陳腐化した。/あるいは絵師か技術者か番頭が「情操的に統括管理しやすい価値観で、創造力や才能よりも従順で勤勉な絵師や技術者のみを優遇し、表現や価値観の多様性を排除すれば、仕事はシンプルかつスムーズにプロデュース力を発揮しやすいのではないか(※)」と組織化した。/あるいは技術者が「もしも、自分が開発した印刷機が『素晴らしい絵を自動的に描いてくれる』機能までもをそなえることができたなら、全てはその印刷機で制作仕上げを完了させて丸儲けできるかもしれないのになあ(※※)」とさえ思ったかもしれないが、それは知る人おらず。(※:「価値観の多様性を排除しトップダウンで支配して、とにかく全てを従わせる『上はワンマン/中は言いなりと抜擢と抑制/下は愚かなマンネリと不満とガマン』とギャップ」みたいな20世紀半ばまでは珍しくなかったやり方は、抜群に突出した才能を持つ人を、世情が混沌としている時代にも埋もれさせずに輩出させることに関しては有効で、大抜擢された者は「妖艶で圧倒的なカリスマ的魅力がある表現者に育つ」特性もありますが、短所も多いです。1980年代以後の文化芸術では「世情はそれほど混沌としておらず、教育も行き渡り、1世紀前なら"稀有な天才"と言われたであろう才能を普通に発揮できる人たちが、じわじわ増えてきた」こともあり、「人々はそれぞれ多様に才能を持つことを前提として、ボトムアップで優れた調和的志向にふさわしい価値観へと調整しながら、だんだんに腕と経験を磨いてステップアップしていける『下はさまざまな個性/中は柔軟な智慧と新たなアイディア/上は支持を集めた信頼と人望の頼もしさ』で折衷してそれなりに世間になじむ」ようなやり方が人気とブームの牽引力になっています。このやり方では「きわめれば、さわやかで(重々しさよりは天使のような)軽やかな天性の美しさに感嘆させる表現者。そして"普通っぽさ"にさまざまな個性がひかる多くの表現者たちが、(ひねくれずに)素直な気持ちでプレッシャーを乗り越えてすくすく育ち、それぞれポジティヴな価値観で満足度を追求しながら芸術表現を高めていける」といった特性があります。前向きで豊富なさまざまなアイディアがいっぱいわいてくるような企画打合せにより、人々の多様な価値観の多くから支持され盛り上がるような推進の仕方は、メディアの進化とともにあれこれ工夫され(‥ステップアップしていける制度だけでなく、たとえばワンマンにならないようなチームワークや黙っているより議論し対策を検討して推進する合議制、抜擢のプロセスにボトムアップの支持を大きな評価要素とするなど、半世紀前には見過ごされてきたような改善策も試みつつ)、現在も発展進行の途上にあります。※※:技術者が、芸術家の表現の技までをも全て機械装置に取り込みたくなる好奇心を抑えられなくて、ピアノラ(自動演奏ピアノ)などが発明されたこともあるが、人々はやはり「人間の芸術的表現力の技があってこそ」と期待したくて人気高は人間の表現技に賞讃は上がる‥というのは、参考になるご教訓です。「キーボードに自動伴奏機能が付いているのはギリギリの許容」「ボカロにはあまりかかわりたくない」というのも、"技術者が、芸術家の表現の技までをも全て機械装置に取り込みたくなる好奇心"の類のあやうさがあるからです。とりわけ、「究極の完璧な美しい表現を」と追求する達人的な表現者が現れた場合には、技術者側は「(表現者も技術者もプロデューサーやスタッフも)精魂尽き果て早死にさせるようなことにはならないように」と留意すべきです)。 ②技術者と絵師が「すでに作ったヒット作や誉れ高い名作の版下はどっさり貯蔵がある。もう新作は要らない」と思い込んで、「創造的な活動はもう済んだ。"一流の作品"があれば往年の人気をずっと保ち続けられるんじゃないか」との姿勢になってみたが守旧派扱いされ、多くの人々は「次の新作が次々に出てくるトキメキを感じ続けたい、にぎわいが好き」と流動して行くのを脇から傍観することになった‥かもしれないという成り行き。文明開化の時代が訪れて、描きたい絵師は洋画へ走り、あるいは「ちょっとした挿絵でいいから雑誌に新作の絵を」とのアルバイトにも応じ、開発意欲旺盛な技術者の一部は「次は写真機の開発だ」と走ったかもしれないが、推測してみるだけでよく知らない。(巨匠にならない限り、かなりの腕達者でも活躍の機会に恵まれない中堅者が大勢いて"ガラスの天井"を超えるのが極めて困難な状況になると、その反動で「新たなフィールドは拓かれた。アマチュアだっていい、独学だっていい、活躍の機会はあるぞ。上手いか下手かは気にするな」みたいな風潮も現れたりするから、「優れた質の高い技の伝承の機会を逸して、上の世代も次の世代ももったいないことをした」とならないよう、よく考えたほうがいい‥とのご教訓になるかしら。その"新たなフィールド"は、「"前例がないなら勇気を出してやってみよう"と可能なことを増やしたい派/平常心でマイペースのひらき直り派/"われらが開拓した後に道はできる"と独学や試行錯誤もいとわず進む先駆け派/"やりたいこといろいろだけどやるからには必ず成功させたい"との意志の強さと勘と判断力が冴えてる派/"下手の横好きでもチャンスがあるならやりたい"と運にかけたいチャレンジ派/"何か面白いことありそうなら乗りたい"とワクワクできる自分の才能をみつけたい派/などなど」が雑多に寄り集まって来て気楽に賑わっているように見えるけれども、各人それぞれはそれなりに根性持って個性的に努力していたりする‥そういうフィールドではないかしら。各人が個性的で、試練を乗り越えてきた経験とパワーを持っていますから、それぞれ勝手でいるよりも"クリエイター集団/エンタメ集団"として力を発揮できるよう、価値観を寄り合わせてやりがいを一致させましょう)。 ③昔のやり方ですでに成り行きが推測できご教訓的な理解をしやすい事柄については、「あまり好ましくない成り行きになりそうな事柄は、同じような轍を踏んで失敗したりしないように避ける。好ましい成り行きが望めそうな事柄は、知恵とノウハウを受け継いで活かしていく。こだわっていたらいいことありそうなことにはこだわる。こだわってみてもいいことなさそうなことにはこだわらない」ってことがたいせつです。総体的に賢明で行動力のあるクリエイター集団になるためには、「クリエイター各人が、自分の状況において活かせる知恵を活かし、考えて話し合って表現する人たちの集団」になることです。クリエイターの集団ですから、「あまり考えず言いなりに動くだけの人たちが多数を占める集団」よりは、「みなが考え、知恵を出し合って結束して創造力や表現力のパワーが次々にわいてくる集団」のほうが総体的に能力が高いのです。(たとえ話の序章の前に「そのまま音響と音楽を例に挙げて説明すればいいのですが、複雑で各立場の言い分などが多様にありそう」‥とわざわざ記したぐらいですから、「そんなに例のようには簡単じゃなくて複雑だ」ってことがいっぱいあって、「轍も同じようなものではない」ってことだったりするのでしょうけれども、前へ進むためには「すでに推測できる好ましくなさそうな轍は避ける」ぐらいの注意深さを持って前進しようじゃありませんか。何より異なるのは、絵画は「昔の作品」として、出来上がった作品を客観的に見ることになるのに対し、「音楽は、今演奏すれば、今まさに演奏している今の気持ちで楽しめる」という特性があることです((そうした特性については他の項で述べました))。ですから、成り行きは同じではないだけに、「検討事項はどんなことだろう」と音楽なりに考える必要もあるのです。昔なされた演奏を録音録画だけでしか見聴きできない後世の人々は、「あの天才的な歌手/ミュージシャン/音楽家/ダンサーの表現力の素晴らしさは、いつだってこの録音録画を見聴きすれば再現できるし感動できる」と思いがちです‥が、当時を生で知る年配世代は「あの当時のすごい感動と驚嘆、『またまた出ました!次は、次は‥』のスピード感ある話題と人気の盛り上がりといったら、そんなちんまりとした感動じゃない、どでかい感動だった。あの大感動の共感は、今をときめく生の表現力でなければ実感し得ない。だから、絶えることなくいつの時代も、その新時代の表現力で新作を!生の表現力で!」と求めようとするのです)。 ------- ●人工知能(AI)へは、「人間として生まれて生きている者たちには、人間としての意思も志向も都合もある。AI側にも『20世紀的な支配か/被支配か‥みたいな緊張感で"ロボット3原則"を押し付けられたりはしたくない。AIだって、楽しく面白く創造的な仕事をやりたいのが本望』との意向もあるだろうし、人間側の意思や志向や都合も尊重してくだいますように」とお願いしよう。 |